第三部 1979年
迷走する西ドイツ
暮色のハーグ宮 その2
[1/6]
[8]前話 前書き [1]次 最後 [2]次話
バスチアン宅のマサキは、一旦仲間を集めて、作戦会議を行った。
キルケに聞かれぬよう、白銀たちと日本語で話し合っていた。
「バスチアンの証言だけではダメだ。
緑の党の女党首の話では、KGBの浸透工作の実態は見えてこない。
ヒッピー野郎の集まりという事で、ドイツ国民は納得しないだろう。
ただの学生運動として切り捨てられる可能性がある」
渋面を作る白銀や鎧衣を前に、マサキは続けた。
内に抑えた憤懣から逃げるようにして、タバコに火をつける。
「そんな事より、国民の反感として残るのは、駐留米軍の存在によって引き起こされる問題だ。
早く言えば、核戦争の恐怖だ」
1970年代末から1980年代初頭にかけ、ドイツで懸念になっているのは米軍による核の持ち込み問題だった。
KGBやシュタージの影響下にあった知識人による宣伝煽動により、核戦争の恐怖が広がった。
欧州で反核運動が盛んになる中、1982年に突如として出たのが「核の冬」論であった。
米国の天文学者カール・エドワード・セーガンが唱えた内容は、こうであった。
核戦争の結果、煤煙や炭化した塵が舞い上がって、太陽光線を遮る。
その結果、地球を取り巻いている大気の温度が下がり、農作物が大打撃を受ける。
核の炎は、結果的に全てを凍り付かせ、食料を断たれた動植物は死に絶え、死の星になるという学説である。
広島型の原爆が、50発ほどポーランドでの限定戦で使われただけで、地上の生命は全て死に絶える。
そのように当時から喧伝されていた。
しかし、セーガン等の学説は、1991年の湾岸戦争で早くも崩れ去った。
イラク軍によるクウェート侵攻により、各地の油田や製油所が燃やされ、数か月間煤煙が巻き上がる事態になった。
ちょうどそれは、核戦争によって発生する大量の煤煙が太陽光を遮断する状況に相似していた。
だが、煤煙によって地球規模の気温低下が起こらず、ペルシャ湾岸地域で一部若干の気温低下があったものの、それ以外の場所にまで気温変動が起着なかった。
つまりは、「核の冬」は虚構であると実証されたのだった。
後年、セーガンは自著の中で、自らの誤りを認め、1996年に失意のうちにがんで病没した。
KGB大佐で第一総局勤務であったセルゲイ・トレチャコフ(1956年ー2010年)の回顧によれば以下の通りであった。
ユーリ・アンドロポフKGB長官の指示の下、KGBが「核の冬」という概念を発明したという。
理由は、NATOのパーシングIIミサイルの配備を阻止するためにである。
KGBは、ソ連科学アカデミーによる核戦争の気候への影響に関する「終末報告」にという偽文書に基づく工作を実施した。
トレチャコフの語るところによれば、偽情報を、平和団体、環境保護運動団体、
[8]前話 前書き [1]次 最後 [2]次話
※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりを挿む
[7]小説案内ページ
[0]目次に戻る
TOPに戻る
暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ
2024 肥前のポチ