第三部 1979年
迷走する西ドイツ
暮色のハーグ宮 その1
[1/7]
[8]前話 前書き [1]次 最後 [2]次話
鎧衣が、CIA長官に一報を入れてからの米国の動きは早かった。
後にマサキは、涼宮総一郎の話によって知るのだが、外交筋は対策に乗り出す。
その日のうちに、米大統領府はブレジンスキー補佐官を呼びつけ、西ドイツへの調査を命じた。
ブレジンスキーは、翌日、ヘンリー・キッシンジャー博士に電話し、事件を調べさせた。
ここで、読者の多くは、キッシンジャー博士とブレジンスキー教授が犬猿の仲ではなかったかと考えておられる方も多いであろう。
たしかに、キッシンジャーは、米共和党に組みし、リアリズム外交に徹した戦略家であるのは事実である。
国際秩序を安定させるためならば、敵の中共とも手を組む柔軟な戦略家である。
それに対し、ブレジンスキーは、米民主党の戦略家として歴代民主党政権に影響力を及ぼしてきた。
生まれも、育ちも違った。
キッシンジャーはドイツ系ユダヤ人の移民で、戦前に米国に亡命した人物であった。
一方、ブレジンスキーはポーランドの草深いベレジャニ(今日のウクライナにある都市)に基盤を持つ貴族の出であった。
一説には、白ロシアあたりのユダヤ系ポーランド人を起源とする説もあるが、さだかではない。
だから、全く対照的な存在であるのではないかと。
しかし、米国においては、彼らは新天地を求めてやってきた成り上がりの外人であった。
民主党、共和党に限らず、外交問題評議会や国務省に盤踞する東欧系ユダヤ人という点では、彼らは同志だった。
世間での評判は別に、ブレジンスキーとキッシンジャーは、個人的な仲は良好であった。
ほぼ同年代で、ドイツ・東欧出身ということもあり、政治的見解も近かった。
頻繁に私的な電話を繰り返し、彼らの政策は、組織的な談合である程度の方針が決められていたのだ。
両人は、名うての反共人士との前評判だったが、実際は反ソ容共人士だった。
キッシンジャーは、さる会合で、ハーバード大のリチャード・パイプスと同席した。
核不拡散と対中接近は失敗であるという事を詰め寄られると、しぶしぶ認めた。
――パイプス教授は、ブレジンスキーと同様にポーランド系。
ユダヤ人で、ハーバード大にロシア研究センター所長を務めた。
後にレーガン政権で、国家安全保障会議ソ連・東欧部長として政策に関与した人物である――
ブレジンスキーは、反ソ思考は本物であったろう。
だが、米国の利益のためには考えていない節があった。
そしてなによりも、自他ともに認めるマルクス主義者であった。
彼の著作、『大いなる失敗: 20世紀における共産主義の誕生と終焉』の中にも端的に表れている。
前掲著では、共産党一党独裁の人的被害を記した。
その一方、『共産主義諸国がとくに重工業、社会福祉、教育の分野で大き
[8]前話 前書き [1]次 最後 [2]次話
※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりを挿む
[7]小説案内ページ
[0]目次に戻る
TOPに戻る
暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ
2024 肥前のポチ