第三部 1979年
戦争の陰翳
夏日 その2
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東独軍が、なぜ実戦部隊である戦術機隊にまで婦人兵を配備したのか。
それはソ連からの強い要請によるものと、1970年代の婦人解放の影響であった。
すでに東独軍は1950年代の兵営人民警察時代から少数の婦人兵を後方勤務要員として迎え入れていた。
プロイセン軍の伝統を色濃く残す東独軍が、軍への婦人参加を認めたのは、第三帝国時代の先例があったからだ。
通信や看護要員として、既に女性職員が存在していた影響もあって、専門職である下士官の女性への門戸開放が行われた。
1961年まで東独は、ワイマール共和国と同じように完全志願制の軍隊で、兵役が存在しなかった。
戦争の惨禍の記憶が人々に残ったことと、東独政府自身が経済発展を重視した為である。
また、駐留ソ連軍に安全保障を任せきりにした面もある。
ソ連の衛星国という地位に甘んじ、自主的な軍備を控えるという形で安全保障を放棄していたのだ。
その様な考えは、1961年のベルリンの壁建設で脆くも崩れ去ることとなる。
東独政府は、35万を有する西ドイツ軍に対抗すべく、選抜徴兵制の導入に舵を切った。
だが、住民の反発も強く、徴兵拒否で逮捕されたり実刑判決が出る事態が相次ぐと態度を一転し、徴兵忌避を認めることとなった。
徴兵忌避者は、兵役を回避する代わりに、建設兵と呼ばれる特殊な階級章を付け、土木作業や災害対応任務、援農などに回された。
ちなみに西ドイツでも同様に徴兵忌避が認められたが、彼等もまた人が嫌がる仕事を低賃金で行わされることとなった。
この徴兵忌避制度は、戦後ドイツ社会の一種のあだ花となり、2011年の徴兵制停止まで様々な形で乱用されることとなった。
東独政府が女性衛士の育成に乗り出したのは、ソ連での相次ぐ敗戦を見越しての事だった。
第二次大戦による大量の戦死と相次ぐ亡命により、もともと成年男子人口の少ない東独では、兵員数の確保は急務であった。
だが急速な経済発展と産業の維持を考えて、兵員数は10万人以下と内々に決められていた。
仮に西ドイツと同じように40万人ほどを動員すれば、1600万人の人口のこの国に与える経済的損失は大きかった。
東独軍は、一定数の士官や下士官を確保するために様々な特典を付与して、その維持に努めるほどだった。
その一例として、選抜徴兵ではなく予備士官の教育を受けた人間は大学に無試験で入学できたり、4年以上の勤務経験のある予備士官及び下士官は国営企業や関連団体に再就職先が確保されていた。
この様に各種の恩恵を与えていても、徴兵忌避者は毎年2000人以上と一定数出て、士官の数が足りなかった。
手塩にかけて育てたパイロットなども有能な人間から退役し、国営航空のインターフルークや民間に流れていく状況だった。
そういう事
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