第三部 1979年
迷走する西ドイツ
卑劣なテロ作戦 その2
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和友好国家」とか「ソ連は反テロリズム国家」と喧伝していた。
だが、それは、自らの犯罪行為をカバーする偽装工作であったのだ。
西ドイツにおけるドイツ赤軍のテロ事件は、西側社会の不安定化工作の一端であった。
盤石と見えたソ連の支配体制が揺らぎだしたこの時代において、ドイツ赤軍の行動はKGBの利益を守るものであったのだ。
KGB長官は、第一総局長に皮肉交じりに答える。
第一総局長は、冷笑をもらした。
「大勢の犠牲者が出る事だろうな」
「ホホホホホ。
やむを得ない事です。
木原が、わがソビエトの要求を呑んでいれば、爆破されずに済んだことですから」
「すべての非難は、東西ドイツに集まるという事か。
かつてドイツ赤軍を支援した東ドイツと、警備体制が不十分な西ドイツ当局……
黄色猿に下った犬畜生どもも、いい気味よ!」
当時のKGBは、西ドイツに対して深い敵意を抱いていた。
ルーマニアの対外諜報機関長パチェパが、ヘルムート・シュミットの手を経て、米国に政治亡命した為である。
これにより、ルーマニアの対外諜報は勿論のこと。
KGB、GRU、シュタージの、一連の対外テロ工作などの悪行が、白日の下にさらされた。
「左様です」
「よかろう。フハハハハ」
西ドイツ政界の上院議長を通じての、マサキ暗殺作戦。
なぜソ連秘密情報部は、そのような事が可能であったのか。
それはKGB、GRU、シュタージと言った東側のスパイが、西ドイツ諜報の奥底に入り込んでいた為である。
史実を基に関係者の名前を列挙したい。
オットー・ヨーン(憲法擁護庁長官)
戦前からの弁護士で、ルフトハンザ航空の顧問弁護士出身。
ヒトラー暗殺計画に参加後、亡命し、ロンドンに移住。
1950年に帰国後、憲法擁護庁の初代長官になる。
しかしまもなくKGBの調略により、スパイとなり、東ベルリンでシュタージに情報提供をしていた。
1954年にKGBの手引きで東ベルリンへ亡命未遂事件を起こすも、帰国し、逮捕される。
4年半の実刑判決を受けるも、後に恩赦。
1997年に死去。
ヨハイム・クラーゼ(軍事防諜局副局長)
戦前はナチス党員で、戦後は正式な将校教育を受けずに高級将校になった。
ソ連軍により家族を殺害されるも、金欲しさから東ドイツに近づき、2重スパイになる。
東ドイツと接触するたびに5000ドイツマルクを受けとっていた。
1988年にがんで死亡するまで、スパイであることが露見しなかった。
ハンス・ヨアヒム・ティートゲ(憲法擁護庁対外防諜局長)
別名:ヘルムート・フィッシャー。
1979年に東ドイツ防諜責任者になるも、妻の死によりうつ病に陥る。
(シュタージの尋問調書によれば、妻
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