第三部 1979年
戦争の陰翳
東京サミット その3
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きたことと事実が異なることが判明した好例である。
以下に参考URLを記載したい。
株式会社東環『きょうの東環』2019,07,03, Wednesday「常識が覆されるとき」
http://www.tokan-eco.jp/blog/index.php?e=1667)
アクスマンの遺書という、今回の偽情報工作の目的とは何か。
それはKGBによる対日世論工作であり、また日・米・中の離間工作であった。
ゼオライマーの機密情報をもとにし、反ソで結束しているこの三カ国間の連携を崩すという方策であった。
この作戦は日米間の離間工作だけではなく、ソ連と急速に距離を置き始めていた東独にも向けられたものだった。
東独側は日米と違い、事態を静観しているばかりではなかった。
早速、その対策として、密かに人員を派遣することとしたのだ。
ラインホルト・ダウムは、東独政府団が東京に来る前に日本に来た。
彼は、シュタージの対外諜報部門・中央偵察総局の副局長の一人である。
ダウム自身はシュタージに採用されて、すぐポーランドでの潜入工作員として活躍した老練な諜報員だ。
西ドイツへの積極工作という情報操作を専門とし、わずかな虚偽情報を混ぜた政府機密を意図的に流す事をしている男だった。
これはKGBが良く使う手で、英語でActive measuresとか、露語でАктивные мероприятияと呼ばれる。
防諜機関のない日本では、スパイ天国であることはシュタージの間でも常識だった。
KGBが東京の新聞社に出入りする人間に接触し、言葉巧みに世論誘導することは簡単である。
仮に非公然工作員が捕まっても、それを処罰する法律がない。
だから諜報関係者の間では、日本に来るという事は一種のバカンスである。
という様な政治的小話を、KGBの連絡員によく聞かされたものだ。
今回は東ドイツの雑誌、「Das Magazin」の記者という名目で、ビザ申請し、入国したのであった。
(ダス・マガツィーンという雑誌は、統一後、出版社を変えて存続している。
男性向けの雑誌で、読者層の75パーセントは旧東独となっている。
スイス国内でも同名の雑誌が発行されているが、前出のドイツ紙とは全く無関係である)
日本側も東独の新聞記者や雑誌社の人間を警戒しなかった。
それは日本が、東独では報道が許された数少ない西側先進国という面があったからだ。
東独では、西独の情報は入ってきていたが、大っぴらに語ってはいけないことだった。
住民はおろか、党幹部、軍関係者やシュタージでさえ、西独のテレビを見ていたが、そのことを
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