十、光に対して希望を条件反射的に見てしまふといふ思考は誤謬である
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結論へと至ったのであった。コペルニクス的転回か。闇尾超がいふ通りだとすると、希望は闇では遍く鏤められてゐることになり、また、闇尾超は闇を虚数の世界とも規定してゐるが、これは私の考へと同じである。その虚数の世界に遍く鏤められた希望とはのっぺらぼうの眷属なのだらうか。何故のっぺらぼうが出てくるかといふと、闇尾超がいふ希望が闇といふ虚数の世界に遍く同確率で鏤められてゐるといふことは、どうしても私の思考の悪癖からのっぺらぼうを想像してしまふのだ。しかし、闇に希望が遍く同確率で鏤められてゐるとは限らない。それは斑に鏤められてゐると考へられなくもないのである。何故なら、闇にはものとして隠匿された存在も秘められてゐて、さうすると闇には見えぬながらも確かに存在してゐるものがあり、闇に遍く希望が鏤められてゐるとはいひ切れないのである。とはいへ、闇尾超は存在に対してさう述べてゐるのではなく、飽くまで希望に対して述べてゐるので、或ひは闇尾超のいふ通り希望は闇の中に遍く同確率で鏤められてゐるとといふ考へも全く否定できるものではない。
仮に闇尾超のいふ通り、光にではなく闇に遍く希望が鏤められてゐるとすると、闇の中で悪戦苦闘してゐる「私」は、希望の中で悪戦苦闘してゐることになる。それは唯、希望が見えてゐないだけで、希望は絶えず「私」にぴたっとくっ付いてゐて、闇へと手を伸ばせばすぐにでも希望に手が届くことになる。しかし、現実はそんなことは決してないのだ。闇に手を伸ばしても希望は?める筈もなく、その行為は虚しい結果を残すだけといふのが現実ではないであらうか。ここで、思考の相転移といふ考へを持ち込んでみる。闇の中で希望が全く見えずに悪戦苦闘、試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返す中で、「私」はさうしてなんとか希望を見出すこと屡屡である。それは思考が相転移を起こしたと看做せないだらうか。思考の相転移とは、私論に過ぎず、闇尾超の思考の堂堂巡りの末にどん詰まりに追ひ込まれた思考はぴょんと跳び上がり第三者的審級の位置に飛び出るといふ思考に似てゐなくもないのであるが、思考は悪戦苦闘、試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返すうちに相転移を起こすのである。相転移を起こした思考はそれまでとは全く違ふ思考の断片や端緒が見え出し、思考の仕方すら変はるのである。然し乍ら、一度の思考の相転移では未だに希望の欠片すらも見出せずに、また、只管に試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返すことになる。さうするとまた、思考は相転移を起こし、それまでには全く見出せなかった思考の地平が拓かれるのであるが、それでも未だに希望は見出せない。藁をも縋る思ひで試行錯誤を繰り返し、何とかこの錯綜し混濁し澱んで腐りきった溝水の如き状況から抜け出さんと藻掻き苦しむ中で、再び思考は相転移を起こす。さうすると、「私」は思考の相転移で変
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