十、光に対して希望を条件反射的に見てしまふといふ思考は誤謬である
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ものと看做したのである。それは何故か。私には陽光下の存在――存在なんて言葉は後に知ることになるのであるが――が、「それ」であることを強要されてゐるとしか思へなかったのであった。陽光下では存在は逃げやうがない。「それ」は徹頭徹尾「それ」であらねばならぬ。つまり、陽光下では私は私であることを強要されるのだ。それが息苦しさの根本理由であった。埴谷雄高はこれをして自同律の不快と名指して見せたが、しかし、それは思春期で大概は吾の有様に見切りをつけて過ぎ去る一過性のものに違ひないのであるが、私の場合は、私であることの息苦しさは今以て消え去ることがない大いなる蹉跌であり、其処から一歩も抜け出せぬのである。息苦しさには時空間が私の周辺で歪み、キリキリと私を締め付けるやうに感じられるやうになったことで、その束縛感は更に増幅され、それに対してはもう、お手上げなのであった。だから、私はそれが嫌で昼間は寝てゐて夜になると起き出す昼夜が全く逆転した生活を送るやうになったのである。
乖離性自己同一障害。私はこの私の趨暗性をさう名付けて遣り過ごさうとしてみたが、全ては無駄であった。それもこれも光に正義があると刷り込まれてゐた結果の惨敗なのである。それに気が付くまでに何年かかっただらう。結局の所、私が辿り着いた結論は光に希望はないといふことなのであった。希望は闇にあるとコペルニクス的転回を行うことで、蹉跌が瓦解したのである。蟻の一穴ではないが、一度瓦解を始めると全ては崩落し、成程と全てに合点が行くのであった。
故に光に希望を条件反射的に見てしまふ思考は誤謬である。この結論に至ることで私は救はれたのであった。
闇尾超の光嫌ひは有名で、趨暗性といふ言葉は闇尾超にこそ当て嵌まる言葉であり、何故闇尾超が光を嫌ってゐたのかといふことは知らなかったが、さういふことであったか。成程、もう消えかかってゐる記憶を弄ってみると、幼き頃の闇尾超は確かに年がら年中泣いてゐた。自分でも何故泣いてゐるのかその理由が解らないらしく、闇尾超ばかりでなく、周りの大人たちも皆戸惑ってゐたのを覚えてゐる。後年闇尾超はNoteにも書いてある通り、学校にも行かず、昼間は寝てゐて夜になると活動を始める昼夜逆転の生活を送ってゐたが、皆はそれを自堕落なためといって闇尾超に対して眉を顰めてゐたさうだ。しかし、それは間違ひであった。闇尾超は光の下では否が応でも何故だか解らぬがとことん嫌ひな「私」と対峙することになり、それに堪へられなかったのだ。それを闇尾超は陽光の暴君的な抑圧と呼んでゐるが、存在がそれであることを強要される光の下を極度に嫌ってゐたことになる。それに対して息苦しさを覚え、それに加へて時空間がキリキリと締め付ける感触に悩まされてゐた闇尾超は、当然の帰結として、光に希望を条件反射的に見てしまふ思考は誤謬であるといふ
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