九、Cogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit. (吾思ふ、故に吾不安になる。そして、吾を超える。)
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――デカルトとのCogito, ergo sum.は誤謬である。何故なら吾思ふことが、吾の存在を定義づけることにはちっともならぬからだ。吾は思ふはいいとして、その思ってゐるものが吾であるといふ確信は必ずしも得られぬものである。条件反射的に吾ありには繋がらないのである。なんて天邪鬼だらうと吾ながら苦笑する外ないが、でも、どうあってもCogito, ergo sum.は受け容れられぬ。それをいふなら、Cogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit.といったほうが余程しっくりとくる。それは何故か。それはいふなれば、思ひに思ひ倦ねて思考が堂堂巡りを繰り返すうちにその堂堂巡りを繰り返す思考にはちょっとづつ差異が生じるのが必然であるが、その状態の時は誰しもが極度の不安の中にあるけれども、ところが、ある時、不意にそれまで堂堂巡りを繰り返してゐた思考は、あらぬ方向へとぴょんと飛躍し、自分でも思ひもかけぬ思考の扉が開き、神の啓示を受けたかのやうにそれまで堂堂巡りを繰り返し思ひ倦ねてゐたことの答へに何故だか辿りつくこと屡屡である。それは余りに摩訶不思議なことであるが、吾思ふといふことは、吾は、不安故に、或ひは思ひ倦ねてゐる故に思ふもので、その思ふといふ行為を通して吾は思考の堂堂巡りといふ渦動に呑み込まれ、息つく島もなく思考の渦動に溺れかかるのであるが、火事場の馬鹿力ではないけれども切羽詰まって南無三、と思ったときにズボズボと思考の渦動に呑み込まれ底へ底へと押しやられたときにぴょんと思考は跳ね上がり、宙空に飛び出すのである。さうして堂堂巡りを繰り返してゐる思考を第三者的審級の位置で見下ろしながらも思考はすかさず天を見上げて、堂堂巡りを繰り返してゐたときには思ひも付かぬ閃きを得るのである。この時、吾は吾を超えてゐるといへる。さうでなければをかしいのである。思考は絶えず吾を超えやうと吾である不安の中で藻掻いてゐるのだ。或ひは未解決問題に対して考へに考へ倦ねた結果、さうして嫌といふほどに堂堂巡りを繰り返し、遂にはその思考の渦動に呑み込まれるのであるが、あな不思議、追ひ詰められた吾の思考は、ぴょんと跳ね上がり、宙へと飛び上がる。その時、思考は吾を追ひ越してゐて、デカルトのCogito, ergo sum.では収まりきれぬ吾の様態が存在する。故にデカルトのCogito, ergo sum.は誤謬である。正しくはCogito, sic Im 'sollicitus. Et superabit.といはねばならぬ。
闇尾超は生前、デカルトは嫌ひだといってゐたが、吾思ふに不安を見、そこに思考の堂堂巡りのどうしやうもない渦動を見、さうして思考が不意に飛躍するその不思議な経験を而してCogitoが吾を超える様を結論として導いてゐたか。確かに思考すると
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