第三部 1979年
姿なき陰謀
権謀術数 その4
[5/6]
[8]前話 [1]次 [9]前 最後 最初 [2]次話
している最中だった。
急遽、彭徳懐や朱徳など建国期からの元帥などを助命する嘆願が毛沢東に出されたが、既に遅かりしことであった。
彼らの多くは、文革と紅衛兵の専横によって既に健康を害し、病に侵され、少なくない者たちが落命した。
人民解放軍内部の不満を押さえつける為、急遽1971年に事故死した林彪をつるし上げることにしたが、それでも何の解決には程遠かった。
中ソの連合軍が新疆ウイグルや中央アジアで戦っている頃、米国は大々的にソ連への軍事支援を開始した。
議会での長い議論を経たため、1974年12月1日まで遅れることとなった。
この為に、ソ連軍は中央アジアで、50個師団を失い、軍民合わせて2000万人近い人命が失われた。
それは4年の独ソ戦のペースを上回る規模であった。
ソ連軍には、それぞれ兵員充足率によって、A・B・C、正確にはА・Б・Вという分類がなされていた。
まず、А集団は、おおむね75パーセント以上の充足率を誇った。
武装がいきわたり、練度と士気の高い部隊で、即応性が保証されていた。
主に東欧とモスクワ周辺に配備されていて、高い充足率であった。
続く、Б集団は、おおむね50パーセント以上の充足率。
72時間以内の動員が義務付けられており、4分の3が狙撃兵師団(歩兵師団)で、機甲師団の割合は少なかった。
最後に、В集団は、おおむね25パーセント以上の充足率。
2か月以内の動員が義務付けられており、師団数はА・Бと変わりがなかった。
だが、その実態は司令部に連絡将校の身を配置し、兵員数が不十分だった部隊がほとんどだった。
俗に幽霊師団と呼ばれ、主に国境からほど遠い内陸部、中央アジアに主に配置された。
BETA戦争で中央アジア方面で戦ったのは、В集団であった。
ソ連政府は、モスクワ周辺と東欧の駐留軍を移動させるのをよしとしなかった。
一番の理由は、東西冷戦。
だが東欧の駐留軍は、幹部子弟の避難先という事情もあった。
最高指導部に近い人間ほどモスクワ周辺に配属され、その次に重要な幹部たちの子弟はバルト三国と東欧。
隠れた避難先として共産蒙古も、また人気があった。
志那との国境沿いでありながら、BETAがなかなか来なかった。
その為、比較的安全な勤務地として、ロシア人やウクライナ人などの白人のスラブ系や中堅幹部の子弟が配属されていた。
また、中ソ紛争の経緯もあって、精強なロケット軍と戦車師団を7個ほど配備されていた。
中央アジアは、ソ連政権維持のため、捨て石にされた。
現地募集された兵士の殆どは、ロシア語での意思疎通が非常に難しかった。
部隊によっては、古参の下士官や現地勤務経験のある将校がいないと、兵士たちを思い通りに動かせなかった。
また、
[8]前話 [1]次 [9]前 最後 最初 [2]次話
※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりを挿む
[7]小説案内ページ
[0]目次に戻る
TOPに戻る
暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ
2025 肥前のポチ