六、 自同律の不快の妙
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――自同律の不快の妙。埴谷雄高は、自同律を自同律の中に閉ぢ込めて合理的な考察に終始することなく、不快としたところにこの埴谷雄高の論法の妙が存分に現れてゐる。人間の起動力の一つに快不快があるが、それを自同律に持ってきた埴谷雄高の手捌きは優れてゐるといってよい。例へば『私は私である』で論理は一旦一区切りして、其処で思考は終はりを迎へるのが極普通のことであるが、埴谷雄高はぢっと思索に耽り、『私は私である』を蛸を噛むやうに何度も噛んでゐる中で、自同律から自然と湧き起こる『不快』といふ感情は如何ともし難いものとして自同律の不快といふ人類の思索史に残る箴言を残した。これは、しかし、誰もが抱く感情で、埴谷雄高以前に言葉として表したものは数知れずゐるが、それを端的に『自同律の不快』と名指せた炯眼に平伏す。しかし、事はそれでは済まず、自同律の不快のその先には必ず自己抹殺があり、つまり、『自同律の不快』は自己抹殺の狼煙であり、一度は必ず私は私によって抹殺される業を背負ってゐるのだ。それ故、『自同律の不快』は『自同律の不快故の自滅』が正確な言明であり、自身を自身の手で抹殺しなければならぬのが存在の存在たる所以である、といふのが存在の進むべき道である。
雨降る真夜中、雨音だけが響く中で独り思索に耽ってゐると、不意に闇尾超が現れてぼそりと呟くのを聞くやうな気がしたのである。
――私といった以上、私は私自身の手で私を抹殺しなければ、満足せぬ。
それが闇尾超の本望なのであらうか。結局の所、闇尾超は底無しの循環論法に陥ってしまひ、自縄自縛の中、どうにも身動きがとれずに、自棄のやんぱちでこれ見よがしに自同律の不快を振り翳してブスリブスリとその切れ味鋭い刃で己を切り刻んでゐたのであらう。闇尾超にとっては自同律は不快ではなく苦痛であったのだ。痛みを忘れるために闇尾超は精神的自刃を毎日行ってゐたことは簡単に想像はつくが、それでは更に酷い痛みに襲はれるだけで、何にも解決しなかったに違ひない。それでも闇尾超は一時でも闇尾超であることに我慢がならず、倦むことを知らずに己の手で、己の精神をぼろぼろになるまで、日日、切り刻んで、それを少しの慰みにしてゐた。しかし、だからそれがどうしたといふのだ。闇尾超よ、自同律の苦痛なんて何も珍しいことではなく、極普通のことだぜ。それを何か特別な何かと勘違ひし、それは闇尾超独特の皮肉を込めたわざとの勘違ひをして、それを口実に己を自傷するのは現実逃避の一行動に過ぎぬ。
例へば時空間すらも己の存在に恥じてゐて、恥じ入るばかり故に時空間は絶えず変容し、時間のみを敢へて取り出せば、己に我慢がならずに憤怒に燃えてゐるから時間は流れるとしたならば、その先には時間が目指す”理想”といふのも烏滸がましいのであるが、それでも時間にしてみれば、存在の思ひもよらぬ帰結
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