三、 摂動する私
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――絶えず摂動し、ずれ行く私を指さして迷はずに『阿呆』と罵るべきである。その罵詈雑言にこそ私の本質の尻尾が隠されてゐる。自己肯定を賛美するものの浅薄さが目も当てられぬのは、自己がもう死に体として固着し、自己肯定する私は既に死臭を発する半分白骨化した自己を保持してゐるに過ぎぬのだ。自己肯定したならば、もうそいつは死んだも同然で、ほろほろと自己を慰めながら、奇妙な自己満足に堕す倒錯の中で、悦に入ったそのものは、もう克己の機会を自ら捨て去り、摂動して已まぬ私に対して目隠して、瞼裡に現れる自己の願望が具現化した表象群に囲まれて、夢現に化かされてゐるだけなのである。つまり、自己肯定とは現実を凝視することを止めた心地よい夢の中で生きることを善しとしてしまった所謂悪霊の為せる業なのである。
私は内部の私を?まへることは不可能だと考へてゐる。それは物理学の量子力学の中の重要な原理であるハイゼンベルクの不確定性原理が内部の私といふものにも当て嵌まり、私を把捉しやうとするならば、必ず私はその私から逃れ行き、その尻尾すら捕まへられないのは、内部の私といふ存在は元来さういふ存在であり、捉へやうとした瞬間に内部の私は確定できずに曖昧模糊としたままに何となく漠然と、
――これが私?
と、私を名指せぬままにぼんやりと私らしいものをして私と呼んでしまってゐるだけなのである。それこそ闇尾超が名付けた杳体の如くに杳としてその存在は曖昧模糊と把捉不可能なのだ。とはいへ、存在してゐることだけは解るのである。さうして居直った私は、
――私は。
と、言ひ切ってしまった以上、引っ込みがつかずにその私と名指したものをして何か確定した私を見出したかのやうに振る舞はないと跋が悪いのか、何度となく私は私自身に対して猜疑の目を向けつつも、徹頭徹尾、その曖昧模糊とした私を何か確定した私として偽装して解ったやうな気になってゐるとんだお調子者なのである。
それでは、何故私に対してハイゼンベルクの不確定性原理なのかといふと、私は頭蓋内の漆黒の闇を五蘊場と呼んでゐるが、その五蘊場で私は私をパスカルの思索のやうな鋭きメスで五蘊場に棲む私を解剖しやうとし、現に解剖したところで、私は分身の術ではないが、メスを入れたところからすぐに分裂して見せて、メスを持つ私を嘲笑ふかのやうにそれこそ無限に分裂し、その無限の私が、それぞれ独自の意識を持ち、ペチャクチャと五蘊場中で議論を始めるのだ。それは現代音楽の合唱曲を聴いてゐるやうな錯覚に陥り、無数の声が重なると風音にも似た音ならざる音へと昇華して、ベートーヴェンの第九の合唱ではないが、何か途轍もなく高揚した熱気はひしひしと伝はってくるのである。つまり、私といふものはFractalな存在といへ、それ故に五蘊場に棲む私は無限に分裂可能な存在なのであり、然し乍ら
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