一、 此の世界の中で
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線してしまったが、量子重力理論はひとまず置くとして、形相、即ち、時間と看做せば、時間は流れることからそれに応じたカルマン渦の発生を予想したのであるが、時空といふものを持ち出せば、形相は既にそれが時間を表象してゐるのである。つまり、形相のない不可視な時間は、存在するとはいへ、それは大昔から何らその認識の仕方は変はってをらず、直感で認識する外ないのである。さうであることを知りつつも、それを脇に置いて、例へば、極端なことをいへば、この時空に存在するものは全て形相があるものとしてしまへば、形相がないものは、これまた極端なことをいへば時間に縛られながらも、一方で、在り来たりの時間を超越した存在といふことにもなると考へてみる。そんな存在に千変万化する幽霊が当て嵌まると看做せば、幽霊といふ存在はある意味時空からその存在の拘束を解かれた存在で神出鬼没に此の世に出現することになる。そして、個人的には此の世に幽霊が存在した方が断然此の世は面白いと思ってゐる。これもまた、誤謬の仮象が為せる業の一つであり、誤謬の仮象に夢中遊行する楽しみは、涯が尽きないのである。
以上のことを踏まへて改めてこの碧い蒼穹の下の世界を眺めると、森羅万象は時間の結晶であり、世界を眺望するといふことは時空が開示されるといふことなのだ。否、ある意味、既に時空といふものからも自由な世界といふ現象が湧き立ったゐるだけなのかも知れぬ。この眺望こそ誤謬の仮象とのGapを知らしめ、現実に対してのずれを認識する良い機会なのだ。現実は概して不合理で残酷である。それに対して誤謬の仮象が現実と違ふことを認識しないと、その存在は夢遊病者のやうな状態で何時まで経っても仮象から抜け出せないまま、即死の危険性が高まるばかりである。それは泥酔したものが道路に横たはって車に轢き殺されるやうな危険性なのである。いい気分で道路に横たはったはいいが、走りくる車に轢き殺される悲劇は、現実に起きてゐることであり、お笑ひ種で済まされぬが、道路に横たはるのは泥酔してほぼ夢の中にゐるに等しい状態で更に夢を追ふためにこそ道路に横たはるのであり、それが即死に繋がるのである。つまり、このやうに仮象に閉ぢ籠もり、現実といふものを認識しないと、仮象に埋もれて現実に圧殺されるのだ。多分、四六時中仮象とばかり向き合ってゐれば、その存在は精神錯乱し、憤死するのが落ちである。
私は世界を眺めるのが好きである。しかし、これは矛盾を孕んでもゐる。この蒼穹下の世界のなんと美しいことか。世界は誤謬の仮象すら簡単に飛び越えて、私の想像すらできぬ予測不可能な変化を彼方此方で同時多発的に引き起こし、さうして千変万化するのだ。万物は流転する。しかし、それは至極当然のことで、高高ちっぽけな存在に過ぎぬ私のみの予想通りに世界が変化して行くのであれば、それは、他者にとって
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