一、 此の世界の中で
[2/5]
[8]前話 [1]次 [9]前 最後 最初 [2]次話
ことであり、くどくどと述べることではないのであるが、事、自由、若しくは自在に関すれば、それは誤謬の仮象であればこそ自由、若しくは自在が満喫できるのである。それはこんな風な具合である。恰も自由、若しくは自在は極限値が存在する無限級数の如くに振る舞ひ、その極限値を求める時にひょいと飛び越えてはならぬ閾を、つまり、それは無限なのであるが、その無限へと飛び移って極限値になるやうにして、自由、若しくは自在に事象は相転移する如く変化するのである。現実はそもそもが不合理で、不自由極まりないものである。それを掻い潜って生あるものは存在するのであるが、物理的に存在は現実に束縛されてゐるのである。哲学者は、究極的に存在は時間に束縛されてゐるといってゐるものもゐるが、個人的にはそれはさうかもしれぬが、しかし、時間とはなんぞや、と問ふてみた時、その答へは曖昧模糊とした答へしか得られぬのが関の山である。とはいへ、”時間は流れる”のだ。流れがあれば其処には多分、カルマン渦が発生する筈で、その一つの代表的なものがもしかすると渦巻き銀河なのかもしれぬ。これも誤謬の仮象の一つに過ぎぬが、時間を表象するとなれば、それは誤謬の仮象を駆使する外ないのである。別の言ひ方をすれば、例へば時間を表象するには超越論的観念論の問題となり、確かに時間は此の世に存在するが、それを表象するには誤謬の仮象を用ゐて観念を曲芸的にでっち上げる外なく、その糸口としての自然現象のカルマン渦がその一つとして私は看做したのである。
時間のカルマン渦が仮に存在するとしたなれば、その表象として渦巻き銀河が考へられるといったが、もっと身近な存在に台風があり、もっと身近には不規則に細胞に折り畳まれて収納されてゐる二重螺旋のGenomeがある。渦に円運動といふ反復運動といふ視点を持ち込み、その視点で渦を語れば螺旋と渦は視点が違ふだけの同じ現象であるといふ結果に至るのである。そのことを考慮に入れて尚更極端なことをいへば、質料に形相があれば、その形相が既に時間を表象してゐるといへるのである。その根拠は何かといふと、時間とは既に空間とは切っても切れぬことは言はずもがなであるが、時間だけを考へるのは、既に時代にそぐはず、時空間として此の世は概して四次元多様体として考えるのが、先づ、基本である。その上で、此の世は十次元とか超弦理論から導かれるのであるが、超弦理論が正しいとは限らないので、それもまた、誤謬の仮象かもしれぬのである。更にいへば、量子重力論といふものがあり、其処には出来事を表すのに時間の因子はなく、つまり、諸行無常なるものは、時間の因子がない中での絶えざる変化であり、それは湯水が湧くやうに状態が湧いてくるやうに状態が湧いてくる、つまり、時間因子から自由な変容があるのみなのである。
話は大分脱
[8]前話 [1]次 [9]前 最後 最初 [2]次話
※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりを挿む
[7]小説案内ページ
[0]目次に戻る
TOPに戻る
暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ
2024 肥前のポチ