【プロローグ】新暦65年から94年までの出来事。
【第10章】カナタとツバサ、帰郷後の一連の流れ。
【第8節】背景設定10: 古代ベルカの霊魂観と聖王教会の教義について。
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修行の場」なのだから、厳しいのは当たり前だ。修行が嫌なら、そもそも「この世」になど生まれて来なければ良かったのだ』ということになるのです。
それでは、この世で生きることが、どうして「霊魂をより完全な存在にするための修行」と成り得るのでしょうか。
その疑問に対しては、古代ベルカ人は次のように考えました。
『そもそも、身体は「目に見える肉体」と「目には見えない幽体」とから成り立っている。そして、個々人の死に際して、その人の幽体は「質の良い部分」だけが身魂に吸収されて「あの世」へと旅立ち、「質の悪い部分」はそのまま亡骸となった肉体の中に残って、やがてはその亡骸とともに朽ちてゆく。
同様に、身魂も、実は、霊的には可視である「意識体」と霊的にも不可視である「無意識体」とから成り立っている。そして、恒星天での「二度目の死」に際して、その人の無意識体は「有用な部分」だけが霊魂に吸収されて「神の世」に入り、「無用な部分」はそのまま意識体とともに「あの世」で脱ぎ捨てられる。
「具体的な記憶や人格」を担うのは、身魂の中でも意識体の側であって、無意識体はもっぱら「抽象化された記憶や人徳」などを担っている。
人徳とは地上における人生経験の「精髄」であり、こうした「徳」を増やしていくことによってこそ、霊魂はより「完全な存在」に近づいてゆくことができる。そのための人生であり、修行であり、苦難なのだ』
実際には、一般庶民の多くは、あまり難しい理屈までは理解していなかったようですが、それはともかくとして、「古代ベルカの宗教」は、おおむね以上のような「人間の霊的な成長」を目的とした大変に厳しい宗教でした。
一方、ミッドチルダの本来の宗教は、良くも悪しくも「原始的な」自然崇拝でした。
それぞれの神殿において、それぞれの祭神に対して、それぞれの祭儀が執り行なわれているだけで、教典も教義も戒律も宇宙論も、これといって「共通のもの」は何もありません。
人々は、もっぱら「この世でより良く生きてゆくこと」にばかり関心を向けており、死後の問題に関しては、あまり細かいことは考えていませんでした。
基本的には、『人間が年齢の順に死んでゆくことは「ありのままの自然」なのだから、そのまま受け容れる』という態度であり、『死後の魂の問題のような、いくら考えても答えなど出るはずの無い事柄について、あれこれ悩み続けるのは馬鹿のすることだ』という考え方です。
それは、良く言えば『無駄に死を恐れることも無く、誰かに救済を求めることも無く、ただ生きてゆく』という、非常に「現実的な」宗教でした。
そのため、後に〈号天〉から「輪廻転生とそ
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