【プロローグ】新暦65年から94年までの出来事。
【第10章】カナタとツバサ、帰郷後の一連の流れ。
【第8節】背景設定10: 古代ベルカの霊魂観と聖王教会の教義について。
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、「槍の神」とか、「槌の神」とか、「鹿角の神」とか、「角笛の神」とか、「猪の女神」とか、「果実の女神」などといった具合です。
そして、『地上の人間と直接に交流するのは、決して「真の神々」自身ではなく、その「小さな分身」か、さもなくば「御使い」や「精霊」などの類である』と考えられていました。
元々は「神々の大地」に住んでいた霊的実体でも、「人間のような大きさ」であれば、「門」をくぐって身魂をまとい、一時的に「人格的な存在」となって地上世界に降りて来ることも、また可能なはずだからです。
それとは逆に、「神の世」における「霊魂だけの存在」は、たとえ元は人間であったとしても、すでに地上世界に対する「すべての心残り(執着心)」を断ち切って来た存在なので、もはや「通常の意味での、人間的な(つまり、人格的な)存在」ではありません。
言うならば、彼等はすでに「一度は『人間』を卒業してしまった存在」なのです。
そうした霊魂にとっては、「前回の人生」など、単なる「無数の輪廻転生のうちの一回」でしかなく、必ずしも『その人生だけに特別な思い入れがある』という訳ではありません。
例えばの話ですが、「毎年、夏の長期休暇には必ず同じ観光地を訪れる人」がいたとして、その人が冬になってから自宅で「夏の経験」を思い出す時、果たして「今年の夏」の経験ばかりを思い出すでしょうか。もしかすると、『昨年の夏や一昨年の夏の方が、ずっと思い出深い夏だった』などということもあるかも知れません。
それと同じような意味で、死んでから再び「本来の故郷」である「神の世」に戻って来た「人間の霊魂」にとっては、もう「前回の人生」だけが「特別に思い出深い人生」であるとは限らないのです。
それならば、地上の(生身の)人間たちが、そうした霊魂に対して、なおも「生前の名前」で呼びかけ、祀り続けることに、一体どれほどの意味があると言うのでしょうか。
さらに言えば、故人の遺族がその故人を祀る際には、一般にその人の「人格的な要素」を、つまり、その人の「身魂」を祀っているのです。
したがって、論理的に言えば、『故人の霊魂が「光の門」を抜ける際に、その身魂は脱ぎ捨てられ、それはじきに消滅してしまうのだから、それ以降は、遺族がその人物を祀り続けることには(少なくとも、「生前の名前」で呼びかけ続けることには)もう全く意味が無い』ということになります。
こうした考え方が、「祀り上げ」という行事の理論的な根拠なのです。
【なお、古代ベルカでは、『ごく稀に、新たに「転
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