第二部 1978年
迫る危機
慮外 その2
[1/5]
[8]前話 前書き [1]次 最後 [2]次話
季節はすでに12月だった。
1978年も残すところ、あと一月を切っていた。
今日の物語の舞台は、チェコスロバキアのアエロ・ヴォドホディ社。
同社は戦前から続くチェコスロバキアの航空機メーカーであった。
アエロ・ヴォドホディ社で有名なのは練習機L29であろう。
この複座のジェット練習機は、1961年にソ連のyak-38を抑えてワルシャワ条約機構で採用され、その後、共産圏や第三世界を中心に販路を広げた。
生産数3600機を誇った練習機は、もともと戦闘用ではないが、いくつかの戦争に投入された。
1967年のビアフラ紛争において、L29は求められる以上の役割を果たす。
東側の支援を受けたナイジェリア政府軍は12機のL29をもってして、ビアフラ側の攻勢を押しとどめた。
では、1973年にBETA戦争が起きた異世界のアエロ・ヴォドホディ社はどうしたであろうか。
この未曽有の危機に対して、同社の反応は素早かった。
初の戦術機F−4ファントムの存在が発表された、1974年の段階から練習用戦術機の開発に乗り出した。
既にソ連で開発されていたMIGー21の計器類を転用し、練習機T38を基に開発した世界初の複座練習機を完成させる。
1977年のパリ航空ショーで西側に公開されるも、販路は既になかった。
全世界の練習用戦術機のシェアは、ノースロップ社のT−38の独占状態。
東側諸国は、ソ連が1976年のハバロフスク移転前に転売したF4−Rであふれかえっていた。
新型練習戦術機L−39を買ってくれる国は、どこにもない状態。
アエロ・ヴォドホディ社は、創業以来の危機に瀕していた。
誰もが見捨てた会社に、近いづいた人物がいた。
天のゼオライマーのパイロット兼設計者である、木原マサキである。
彼は、アエロ・ヴォドホディ本社を訪れ、新型推進機の生産を提案したのだった。
「これが、新型の後付けエンジンですか……」
新型の推進装置の図面を手に入れたチェコスロバキアの技術陣は、感嘆するばかりであった
マサキが設計した戦術機用の新型推進装置の外観は、四角い箱だった。
戦術機の背中に増設し、背嚢にどことなく似ていたことから、ランドセルと称された。
ジェット燃料の増槽を兼ねた、この大型推進機の生産計画は一度、富嶽重工にマサキが持ち込んだものであった。
だが、生産ラインの都合とライセンス契約で頓挫してしまう。
特に生存性の向上を考え、予備エンジンとしてソ連製のイーフチェンコ設計局製のロケットエンジンのコピーを乗せるという案に、富嶽重工側が難色を示したのが大きかった。
またマサキが提案した、八卦ロボ共通の背面スラスターに使われている大型ブースターも、鬼門の一つだった。
もともと50メートル
[8]前話 前書き [1]次 最後 [2]次話
※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりを挿む
[7]小説案内ページ
[0]目次に戻る
TOPに戻る
暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ
2024 肥前のポチ