第二部 1978年
歪んだ冷戦構造
シュタージの資金源 その4
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マサキたちは、シュプレー川の中州にある島に来ていた。
そこは博物館島と呼ばれ、帝政時代から複数の博物館がたつ島である。
先の大戦の折、米英軍の空爆を怖れ、多くの発掘品や遺物を地方に疎開させるも、東西分割によって、その遺物は散り散りになってしまった。
また1945年5月に入市したソ連軍によって、多くの得難い秘宝が持ち出される憂き目にあう。
19世紀にシュリーマンが発掘した、古代トロイヤの秘宝である、かの有名な『黄金の首飾り』などは根こそぎ、奪われる事態になった。
長らく、東西ドイツの研究者が所在を確かめるべく、モスクワ当局に尋ねたが梨の礫であった。
モスクワのプーシキン美術館にあることが、「再発見」されたのは、1991年の4月。
その現物が公開されたのは、戦後50年を経た1996年になってからである。
しかし、1945年の夏には、プーシキン国立造形美術館の収蔵庫の奥深くに持ち去らわれていたのだ。
(ソ連時代はA.S.プーシキン国立造形美術館。今日のモスクワ州立プーシキン美術館)
彼等が向かったペルガモン博物館に関して、簡単な解説を許されたい。
我々日本人がベルリンを訪問した旅行者から聞く『ペルガモン博物館』は個別の組織としてはなかった。
それは単なる施設の名称である。
『ペルガモン博物館』は、「回教美術博物館」「近東博物館」「ギリシャ・ローマーコレクション」からなる複合施設の総称である。
(近東とは、欧州からみた近い東の国の意味で、今日のトルコ・エジプトを指す言葉である)
展示内容は、隣接する「旧博物館」や「新博物館」と重なっており、「ギリシャ・ローマーコレクション」などは、「旧博物館」に所狭しと並べてあった。
マサキは時間的な都合から、ペルガモンの大祭壇と、プロイセン王室が中近東から購入した様々な遺物に限ってみることにした。
大小さまざまな展示を見た後、バビロンのイシュタール門の目の前に立った時である。
大勢の観光客が、マサキの事をまじまじと見ていたのに気が付いた。
博物館に行く際、軍服だと面倒なので、濃紺のダッフルコートを身に着けていた。
オリジナルの腰丈のコートではなく、着丈がふくらはぎまである市街地用であった。
外套の下は、分厚いウーリープーリーの黒いセーターと、裏地付きのジーンズといういでたち。
社会見学に来ていたであろう小学生らしき集団が、マサキを物珍しそうに見ている。
そのうち、引率の女教師が近づいてきて、
「失礼ですが、どちらからいらしたのですか。
肌や黒い髪から、お見受けすると、支那人とおもわれますが」
「日本から来ました」
鎧衣の流暢なドイツ語に驚いたのか、はたまた東洋人の珍しさか。
皆、一様に驚いた顔をしていた。
会っ
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