第二部 1978年
歪んだ冷戦構造
少女の戸惑い その2
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かなかった。
許可証のない東ドイツ国民が乗り込まない為である。
許可を得た西ドイツ鉄道警察隊と東ドイツ国境警備隊が乗り合わせ、国境を超えると同時にパスポート確認をした。
その際、特例として、東ドイツ国民は亡命を申請することが暗黙の了解として認められていた。
次に、アウトバーンと呼ばれる交通網である。
東ドイツの高速道路網は、高速交通を監督したソ連の意向もあって、ほぼ戦前のままだった。
速度制限はなかったが、道路予算の少ない東ドイツである。
西ドイツが資金援助した東ベルリンにつながる道路網以外は、道は穴だらけで、凸凹しており、かなり酷い状態のものが多かった。
文字通り、ボロボロだったのだ。
また、東ドイツ交通警察の『ネズミ捕り』が、頻繁に行われていた。
速度超過と言う事で、ドイツ語に不慣れな旅行者から20マルクを度々徴発していた。
不服を申し立てて、料金を払わないでいると、シュタージ第8局と彼らを監督するドイツ駐留ソ連軍の憲兵隊が来て、解放してくれる場合が多かった。
もめ事を嫌う日本人旅行者の多くは、交通警察のネズミ捕りに応じて違反料を支払っていた。
最後は、空路である。
東ベルリンのシェーネフェルト空港は、国際線に限って、西側の空港会社を受け入れていた。
許可されていたのは、フランスのエールフランスである。
その他にソ連のアエロフロートと、東側の航空路線が数社認められていた。
ソ連機に乗るのは、さんざんKGBと干戈を交えたマサキには除外される選択肢である。
エールフランスの場合は、安全に東ベルリンに到達できたが、時間と費用が掛かり過ぎた。
西ドイツ国内上空を通過せずに、デンマーク上空を迂回する空路だった。
以上の経緯から、マサキは一番安全で速い、西ベルリンのテンペルホーフ空港行きパンナム航空の便に乗ることにしたのだ。
西ベルリンのテンペルホーフ空港から、タクシーを拾うと市内に入った。
丁度朝の通勤時間帯であるためか、市街の道路はものすごい渋滞であった。
時折渋滞をかき分けていく、パットン戦車や装甲車などの米軍の車列を見て、
「あれはなんだ」
と瞋恚を明らかに、車夫へ問いただした。
「お客さん、あれは米軍の演習ですよ。
毎週抜き打ちで、通勤時間にやられるのでこっちは商売あがったりですよ」
「西ドイツ政府は何も言わぬのかと」
彼をいらだたせたのは、渋滞ばかりではなかった。
チェックポイント・チャーリーの通過手続きである。
今年(1978年)3月に、はじめて東ベルリンに入った時には集団行動であったので、その様な小難しい査証はなかった。
また9月に行ったときは、外交交渉の一環として入国だったので、国境警備隊もただ見守っているだけ
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