第二部 1978年
歪んだ冷戦構造
もう一つの敗戦国 その1
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、覚せい剤といった麻薬のみならず、LSDやMDMAなどの錠剤状の向精神薬。
ヒッピーに人気のマリワナを低価格で売りさばき、青少年たちを悪の道に引きずり込んでいた。
だが、彼が道を踏み外し、不良へと転落しなかったのは、同い年の義妹、リィズ・ホーエンシュタインの支えがあったからである。
この可憐で、聡明な少女の愛のおかげで、エーベルバッハ少年は、人知れず救われたのだ。
近代ドイツでは、常に労働力の不足が深刻な社会問題であった。
帝政時代より外人労働者を東欧から呼び寄せてはいたが、繰り返された敗戦のたびに、彼らは帰国し、定住しなかった。
戦後復興を支えたのは、「被追放者」と呼ばれる存在である。
第三帝国の敗戦によって外地から引き揚げてきた「在外ドイツ人」とその子孫であった。
ソ連の影響を受けたポーランド、ハンガリーではその支配層にあたったドイツ系住民数百万人が追放の憂き目にあい、西ドイツに流入してきた。
1950年の統計によれば、その割合は全人口の16パーセントに上ったという。
また東ドイツからの労働力は、1950年代初頭の西ドイツの経済発展の立役者の一人だった。
その数は「在外ドイツ人」やイタリア人の季節労働者よりも多く、1961年の壁建設まで300万人が来ていた。
1958年の農業の集団化以降、毎年20万人の農民が西ドイツに逃亡した。
そのことは、東ドイツを支配する独裁党のSEDに衝撃を与えた。
1961年に西ドイツとの融和政策を進めていたソ連の反対を押し切って、国境沿いに鉄条網を引いたのは、このことが原因といっても過言ではない。
1964年に西ドイツが身代金制度を作り、東ドイツから亡命希望者を買い取るまで、その亡命は非常に困難なものであった。
経済発展著しい西ドイツでは、農林水産業や工場労働者など、職種を選ばねば、亡命者であっても簡単に就業できるほどであった。
人民の監獄たる社会主義から逃れてきた彼らは、反共宣伝のために西ドイツ政府に大いに利用された。
西ドイツは、東ドイツからの亡命者を手厚く保護した。
住宅や就労の支援、教育や年金制度に、民間の支援団体の援助。
ポーランドやハンガリーの社会主義圏から落ちのびてくる「被追放者」も同様だった。
東ドイツから亡命したホーエンシュタイン一家もその例に漏れなかった。
二人の両親、トーマスとマレーネは劇作家とは、違う職業を斡旋されて、就業していた。
社会主義化していく東ドイツの暮らしになれた夫妻は、戸惑いこそしたもの、この自由社会に順応していった。
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