第二章
[8]前話
彼女がいなかった、俺は今日は休みかと思った、それで明日は会えるかと思ってこの日もカクテルを一杯飲んだが。
次の日もその次の日も彼女は来なかった、そしてそれからもずっとだった。
彼女は来なかった、一体どうなったかわからない。いつもカウンターにいて注文したカクテルを作ってくれるバーテンダーの兄さんにもそのカクテルを離れた席なら持って来てくれる店員さんにも聞かない、今更いなくなったしかも話をしたこともない赤の他人のことを聞いても無粋だし知っている筈もなかった。彼女が喋っているのを聞いたこともないからだ。
転勤したか退職したか。
事故かも知れないと思った、だが名前も聞いたことがないし話しかけたこともない。知らない顔をして見ているだけだった。それでは知る由もない。
それから彼女に会うことはなかった、だがそれでもだった。
俺はその店に仕事が終わるとすぐに入ってそこで一杯飲んでから家に帰る様になった、それは結婚してからも変わらなかった。
妻にも子供にも誰にもバーに寄ることは言っている、だが。
彼女のことは言わなかった、もう彼女が店に来ることはない。けれどそれでもだった。
俺は仕事が終わると一杯飲む様になった、自然と店のカクテルも好きになっていた。最初は何も思わなかったけれど。
今では実に美味いと思う様になっていた、彼女はいないけれどカクテルは楽しむ様になった。そう考えると名前も何も知らない彼女は俺にとっては運命の人なのかも知れない、そうも思いながら。
俺は今もその店で仕事帰りに一杯飲んでいる、今では日課になっている。この店のカクテルを一杯飲まないで家に帰ることはない、たまたま入って彼女を見て彼女がいなくなってもそうしている。俺だけのささやかなだが大事な話をここに言っておく。
Famme fatale 完
2022・5・29
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