曹参伝
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」
これに諸将は顔の色を変えて憤った。
「我らは堅甲(鎧)を身にまとい鋭刃(剣)を手に取って大小の差はありながらも数十の城0.や地を平定しました。それなのにどうして汗馬の労(戦場での苦しみの事)を知らず、ただ筆と墨をもってただいたずらに論議を重ねた者に我らが劣るのでしょうか。」
高祖ただ笑って諸将に問うた。
「汝らは猟犬を知るか。」
諸将は困惑した。
「はぁ・・。」
高祖続けて言う。
「獲物を仕留めること、これは猟犬の功なのか。いいや違う、これは猟犬に指示を出した人の功である。蕭何は関中において物資や人が絶えぬように指示を出し、また一人ではなく宗族が総出で勝利に貢献した。これを功と言わずして何と言おう。」
謁者(皇帝への取次を行う官)の鄂君も続けて
「蕭何の功は万世に及ぶものでございます。曹参を百人失おうが何が欠けることでしょう。蕭何が第一、曹参がその次でございます。」
これに高祖は大いに喜んだという。
漢民族の「文」を尊ぶ民族姿勢が伺える。
高祖6年(紀元前201年)このような経緯から曹参は勲功第二位となり便宜上の役職であった右丞相の印綬を返上したのち高祖の庶長子である劉肥(旧の正妻で側室の曹氏(名は不明)の息子)が王を務める斉国の相国となった。また列侯(爵位のうち最高位)として平陽の1万630戸(1戸が5人一世帯)封ぜられ、平陽侯を号す。なおそれまでの所領は召し上げられた。また列侯は前漢の武帝の諱を避けて史記、班固の漢書では徹侯となっている。
私見ながら韓信の下につけられたこと、勲功第一位から外されたばかりか軽い罵りを受けたことと外に出たということは「曹参が韓信の監視役だった」ということを指していると思う。
その根拠としては第一に韓信が上将軍(軍の最高司令官)だったとしても古参の曹参をその下におく意味が分からない。高祖、韓信、曹参で軍を分割すればいい話である(戦略的な愚賢は別として)。第二に戦後の論功についてである。散々罵られた挙句、地方のしかも後継者争いから外れた側室が産んだ長男の下につけた。おそらくこれは監視役時代の失敗に対する懲罰なのではないだろうか。実は韓信と共に斉を攻めた際、既に斉は漢側に降伏していた。つまり韓信が味方に対して独断専行の奇襲を行ったことを止めることのできなかったことが戦後の昇進の低さに繋がっているのではないかということである。
高祖11年(紀元前196年)この年の戦果を挙げる。
・反乱を起こした鉅鹿郡守の陳?の部将であった張春とその
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