曹参伝
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・曲陽にて魏王豹を破り追撃先の武垣にて捕縛した。
・平陽を陥落させそこにいた魏王豹の母、妻、子を捕らえた。
魏の地には五十の城があり曹参はそのうちの平陽を領邑に得た。
そのまま韓信に従って(韓信に従っていたことからも左丞相の地位が名目上のものだとわかる)趙と代の討伐に向かった。
この時の功を挙げる。
・代王でありまた趙王歇(もしくは趙王歇、趙歇、もしくは趙歇のこと)の下で相国(人臣の最高位)を務める陳余の腹心であり代の支配を代行する夏説(かえつ(もしくは夏説)を?東部でその軍と共に破り斬った。
・韓信と共に趙王歇と陳余を追撃している際に?で籠城していた趙の将軍の戚将軍(名は不明)を斬った。
敖倉へ帰還した。曹参と韓信は趙での功績によりそれぞれ右丞相(同じ丞相ではあるが左丞相よりも位は上)と相国となった(いずれも便宜上のもの)。
高祖3年(紀元前203年)斉討伐の際、曹参は韓信に右丞相として同行した。
この時の功を挙げる。
・歴下で斉軍を破った。
・臨?を陥落させた。
・済北郡を制圧した。
・著、?陰、平原、鬲、盧の諸県を攻めた。
・韓信に従い龍且が総大将、周蘭が副将の合わせて20万の西楚軍を上仮密で潰滅させ、龍且を斬り周蘭を捕縛した。
・斉の七十余県を制圧し、高密から逃げようとした斉王の田広と、相(諸侯の補佐官)の田光、守相(しゅしょう(相の留守居役)の許章、膠東将軍(膠東は地名だが根拠地の名をあてた自称の雑号将軍(便宜の将軍位)であろう)の田既を捕えた。
高祖4年(紀元前202年)斉王に封ぜられた韓信は陳県に至ったのち垓下においての項籍包囲戦およびその追撃に参加したが曹参は斉の地に残り慰撫を行った。
項籍が烏江の地のおいて四肢を切り刻まれ胴体のみが野ざらしにされたのち、高祖は諸将ならびに百官(文官大勢の意)と共に論功行封について論じた。
高祖は諸将百官に問うた。
「此度の勲功第一位は誰か。」
諸将百官口をそろえて答える。
「身体に数十の傷をつけた右丞相(曹参のこと)が第一位でありましょう。」
高祖笑って言うに
「蕭丞相(蕭何のこと)が勲功第一位なり。
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