曹参伝
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捕虜とした。
このうち雍丘についての功績があることから雍丘が反秦の拠点となっていたと分かる。
高祖は曹参を執帛(楚独自の爵位)に封じ、建成君と号させ戚県の県令として?郡に属させた。
この後の功績を挙げる。
・高祖と共に秦の東郡の尉(郡の治安維持官で姓名は不明)を成武県南部で破った。
・高祖と共に秦将の王離とその軍を成陽県南部で破り、また杠里で破った。
・進出した開封で秦将の趙賁(ちょうほん(もしくは趙賁)を、曲遇で秦将の楊熊を攻撃し司馬(しば(千人隊長)と御史(軍監察官)をそれぞれ捕虜にした。
・高祖と共に陽武を攻めて?轅と?氏を制圧したのち黄河の渡り場を封鎖して趙賁を尸郷北部で討ち取った。
・高祖と共に秦の南陽郡守の呂?(りょぎ(史記にはただ?とあるのみだが後漢の荀悦の漢紀に姓として呂が見える)を陽城の城の東壁にて大破し、苑まで追撃して捕え、?を攻略した。ここに南陽郡は完全に支配下に収まった。
・高祖と共に武関と嶢関を陥れ、その先へ進み藍田北部、東部に夜襲をかけ秦軍を破った。
曹参は楊熊を破った功績で爵位が執珪(しつけい(珪とは玉の意だが圭が土地を表すため土地を持つ諸侯になったという意味もある)となっている。藍田での戦いののち高祖に従って咸陽へ入城し秦王子嬰の降伏を見届けた。この時から史記では高祖元年(紀元前206年)とする。
漢中王となった高祖によって建成侯に封ぜられる。
これに伴い将軍に任命される。
高祖元年楚漢戦争が始まる。ここからは対西楚戦での功績を挙げていく。
・下弁、故道、雍、?(台に同じ)を攻略し、章平(ただし史記高祖本紀のみ章邯としている)の軍を好畤に包囲したのち(その後章平(史記高祖本紀では章邯)は逃亡している)壌郷を占領しその東と櫟陽にて三秦(雍、塞、?の旧秦の三封国)の軍を破った。
・趙賁の配下であった内史(首都近辺の長官)の保(姓は不詳、内史の官は趙賁の戦死後に得たか)を討って咸陽を制圧する。
趙賁についてだが実は戦死しておらず、そのまま三川郡の守備を行っており秦滅亡の際に章邯の下で側近を務めていたとされる説もある。し
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