曹参伝
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曹参(もしくは曹参)は泗水郡沛県の人である。その字は前漢の司馬遷が記した史記には見えず西晋の張華の記した博物志と劉宋の 裴?の作成した史記集解にのみ見られ敬伯という。生年は不明。
西晋の王沈の魏書や東晋の干宝の捜神記によれば曹参の曹氏は春秋戦国時代の小国である?(もしくは?、?)の公族の末裔でそのまた先祖は三皇五帝の黄帝(西晋の皇甫謐の帝王世紀による)である。曹魏の皇族である曹氏は曹参の末裔であるという(ただし曹魏の太皇帝が夏侯氏からの養子であるので傍流の曹仁や曹休がこれに当てはまる)。
秦の始皇帝の治世から二世皇帝初期の治世にかけては沛県の刑務所の属吏(下級役人)だった。蕭何はその時の上司にあたり、共に能吏(役人の中の中心人物)として顔を利かせていた。二人の仲は良好だったという。
二世皇帝元年(紀元前209年)前漢の高祖が兵を挙げた時、中涓(本来は禁中の掃除役で天子の左右に親近するものだが侍従の意だろう)として従軍した。
年代は分からないが戦果を挙げていく。
・胡陵、方与の地にて秦の泗水郡の監(郡の監査官)名は【史記】夏侯嬰伝に平とあるが姓は不明)の軍を破った。
・魏へ叛いた方与と豊を制圧した。
・?県の東方で秦将の司馬夷(しばい、原文では司馬(尸に二)となっているが夷と(尸に二)は同じ音と意味)とその軍を撃破する。
方与と豊の制圧後曹参は七大夫(五大夫?)の爵位を授けられている。この後、曹参は別働隊を率いて西進する高祖を助けるため転戦した。その際の功績も列挙する。
・?と狐父、および祁県の善置を占領し下邑以南の虞の地まで進出した。
・秦将の章邯の騎兵隊を大破したのち爰戚と亢父を制圧する。
・章邯とその軍を大破したのち東阿、濮陽、定陶へ進撃し臨済を占領する。
・南下して雍丘を救援したのち秦の三川郡守(三川郡の長官)の李由を討滅し軍侯(軍の高級将校)を
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