第二百八十六話 色鉛筆その八
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「どう見ても馬鹿だよ」
「それもかなりの」
「その頃は子供でもオウムはおかしいってわかっていたんだよ」
そしてあの教祖もだ。
「それがわかっていないから」
「子供以下なのね」
「そんなのが戦後最大の思想家って言われていたんだよ」
正直呆れかえるばかりだ。
「だから僕はね」
「思想書読まないの」
「特に戦後日本のものはね」
「そうした理由があったの」
「こんな馬鹿な人を凄いとか言うとか」
多くの知識人がこう言うから余計におかしい。
「日本の思想の世界はおかしいよ」
「その人の何がどう凄いか」
「全くわからないよね」
「どうしようもない位に馬鹿な人にしか思えないわ」
香織さんにしてもだ。
「それこそ」
「普通の人はそう思うけれど」
「思想家の人は違うの」
「うん、何か吉本隆明の本って」
一行どころか一文字も呼んだことはない、発言は読んでいてもだ。そしてこれから一生何があっても誰が言っても読むつもりは全くない。本当にあんな奴の本は手に取るその動きさえが時間の無駄だと確信しているからだ。
「何を言ってるかわからないらしいから」
「難しいの?」
「みたいだよ、それで小難しい言葉を羅列していて」
そうしてだ、
「その文章を読んで考えて解釈を出して」
「国語の授業みたいに」
「それが出来た自分は賢い、頭がいい、立派ってね」
その様にだ。
「錯覚させてるんだと思うよ」
「難しい文章を読んでもね」
「それで理解して解釈してもね」
「賢いの?」
「少なくとも読んだ人はそう思って」
それでだ、
「自分は偉いって思えるから」
「持て囃されるの」
「けれどこれは錯覚だから」
このことを僕に言ったのも親父だ、物事というのは実はシンプルなもので難しい言葉を使う場合は偽物だというのだ。
「真理はわかりやすいものってね」
「そうなの」
「天理教の教典なんかわかりやすいから」
教典も教祖伝もそのまま書いている感じだ、ただ和歌の形式のおふでさきや十二下りはそれなりの素養が必要だ。
「小林秀雄もね」
「その人も思想家よね」
「色々な評論も書いてるよ」
僕が思う小林秀雄は評論家であり学者だ。
「この人の文章はそれぞれの文章に対しての教養があればね」
「わかるの」
「モーツァルトにしても日本の古代史にしてもね」
それなりの教養があればだ。
「わかるんだ」
「そうしたものなの」
「うん、それでもね」
「吉本隆明は違うのね」
「もう難しい言葉の羅列で」
聞いた話ではだ、何度も言うがその文章を確認する気は何があっても誰が言っても全くない。それも一生。
「それを読ませてね」
「頭がいいって錯覚させるの」
「ライトノベルでもそうじゃない」
そうした作品も存在す
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