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渦巻く滄海 紅き空 【下】
三十七 『  』
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「もしかして…貴方が治してくださったんですか?」
「………」

沈黙は肯定。
寡黙な人物に戸惑いつつも、カブトはひとまずお礼を述べた。

「あ、ありがとうございます。ですが、見ず知らずの人がどうして、わざわざ…」

ただでさえ、岩隠れの忍びに追われている身。
今や岩隠れの里のお尋ね者である自分を助けた理由が思い当らず眉を顰めたカブトは、相手の次の言葉に益々困惑した。

「いや…見知っているから助けた。それだけだ」
「…以前、僕と会ったことが?」

カブトの問いに、岩壁に背を預けていた人物がゆっくりと身を起こす。
眼には捉えられない速度で印を結んだその者は、カブトには気づかれずに変化の術をその身に施した。


「そうだな…この姿なら、見覚えがあるだろう」

暗がりから月明りの下に現れた存在。
岩隠れの忍びでもなく、この場にはいないはずの人物に、カブトの瞳の色が驚愕に彩られる。

「霧隠れの里で、一度、会ったな」


霧隠れの七人衆のひとり、無梨甚八。
以前、僅かの時間ではあったが、確かに出会っていた相手の出現に、カブトは言葉を失う。


「何故…貴方が此処に…」
「その質問、そっくりそのまま返す。霧隠れの忍びだったお前が何故、岩隠れの忍びに?」

無梨甚八の問いに、カブトはハッと己の額宛てを咄嗟に隠した。
岩隠れの忍びである証の額宛てを握りしめるカブトを、無梨甚八は暫し見下ろしていたが、やがて「まぁ、俺も同じ穴の狢だがな」と苦笑する。

「どういう…意味ですか?」
「俺もまた、霧隠れの忍びでも無い」

片目を覆い隠す眼帯をそっと外しながら、無梨甚八は────否、得体の知れない誰かは衝撃発言をしれっと答えた。


「無梨甚八ではないからな」









警戒態勢を取りつつも、無梨甚八その人に見える人物を、カブトはまじまじと見やる。

眼帯で覆われていた瞳。
無梨甚八本人なら失っているはずの眼がまっすぐカブトを射抜く。

その青みがかった瞳はどこか、紫色にも赤色にも見えた。


「……無梨甚八でも霧隠れの忍びでもないのなら、貴方は一体誰なんです?」
「そういうお前こそ、誰なんだ?」
「…ッ、僕は───…」

今までカブトという名を支えに生きてきたカブトは、無梨甚八に見えるその誰かからの問いに、ひゅっと息を呑む。
今しがた、自分に名を与えてくれた張本人から、己の存在の根幹を突き崩されてしまったところだ。

もはや、カブトだと名乗ることも出来ない。


「ぼ、ぼくは……」

名前も眼鏡さえも、居場所でさえも、見失ったカブトは、わなわなと唇を震わせる。
血を吐き出すように、彼はボソリと、己自身に問うた。



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