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ドリトル先生の林檎園
第四幕その九

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「これがね」
「へえ、そうなんだ」
「松尾芭蕉さんのお墓がお隣ってね」
「どういう縁かな」
「義仲さんと」
「芭蕉さんは義仲さんの一生に想いを馳せていてね」
 それでというのです。
「それで死んだら義仲さんのお隣にお墓をって言ってね」
「それでなんだ」
「芭蕉さんのお墓は義仲さんのお墓のお隣にあるんだ」
「滋賀県の方の」
「そちらにだね」
「そうなんだ、そしてここではね」
 このお寺ではというのです。
「義仲さんはご自身と縁のある人と一緒に眠っているんだ」
「それだと寂しくないね」
「最期は悲しかったけれど」
「それでもね」
「今はそうだね」
「そう、そしてね」
 先生はさらにお話しました。
「僕はこの中でとても好きな人がいるんだ」
「先生が好きな人?」
「誰かな、その人って」
「義仲さんが嫌いじゃないことはわかるけれど」
「誰なの?」
「今井兼平さんなんだ」
 この人だというのです。
「義仲さんに最後の最後まで仕えていたんだ」
「そんな人だったんだ」
「最後の最後まで仕えていたんだ」
「義仲さんに対して」
「そうした人だったんだ」
「そうなんだ、そして義仲さんの最期を見届けて」
 その死をというのです。
「後を追って自害したんだ」
「武士らしいね」
「キリスト教じゃ自殺は駄目だけれどね」
「日本の武士の世界だといいからね」
「殉じるっていうのか」
「忠義、そして友情だね」
 先生は遠い目になってお話しました、お墓を見ていますがそれでも自然とそうした目になったのです。
「義仲さんとのそれに準じてね」
「死んでだね」
「後を追ったんだね」
「義仲さんが死んでからも寂しくないようにかな」
「後を追って」
「死んでからも一緒だって思ったのかな」
「これが日本一の武士の死に様だって言ってね」
 そしてというのです。
「お口の中に刀を入れて乗っていた馬から飛び降りたんだ」
「それでお口から身体の中を突き刺して」
「そうして自害したんだ」
「切腹とはまた違うけれど」
「凄い死に方だね」
「僕はキリスト教徒だけれど」
 それでもというのです。
「日本に来て武士道を学んで」
「わかったんだね」
「それが日本の武士の生き様で」
「あの人達の考えで」
「否定出来ないって」
「そうなんだ、キリスト教の考えだけでは」
 例えキリスト教徒であってもというのです。
「色々わからないものだよ」
「そうしたこともだね」
「わからないんだね」
「日本の武士道も」
「武士の人達の考えや生き様も」
「そのことがわかったよ」
 本当にというのでした。
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