154章 フランシスコ教皇の核廃絶のメッセージ
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154章 フランシスコ教皇の核廃絶のメッセージ
11月25日、午後六時過ぎ。
川口信也は、先日、書き上げた詞に、メロディをつけ終わったばかりだった。
この歌作りは、期日のある仕事であるので、いまは、ほっとして、のんびりと、
ひとり、部屋で、カフェオレを飲みながら、信也は、テレビを眺めている。
NHKの生放送番組の『これでわかった!世界のいま』をやっている。
ローマ・カトリック教会の、フランシスコ教皇きょうこうが、
23日から来日していて、被爆地の長崎と広島で、
核廃絶のメッセージを発信したりしている。
「へーえ。やっぱり、こんな世の中でも、世の中を良くしていく、
力となるものは、やっぱり、個人だし、人間なんだよなあ。
フランシスコさんのような、私心のない、心のきれいな人が、キリスト教の指導者ならば、
キリスト教を批判していた、あの、ニーチェさんも、きっと、驚嘆し、感激したんだろうな。
こんな改革を実行する教皇とならば、歓喜して、仲良くなったんじゃないだろうか。
なにしろ、ニーチェは、
『わたしが神を信じるなら、踊ることを知っている神だけを信じるだろう。』
とか、って言っていて、
宗教は、大嫌いってわけじゃないんだろうけど、
まず、それよりも、個人の尊厳とか、本当の人間らしい生き方を、考える人で、
自由や美や芸術を愛する人だからなあ、ニーチェは・・・」
フリードリヒ・ニーチェは、『アンチクリスト』(『反キリスト者』)という、
腐敗が目立つ、キリスト教を批判する書を、1888年の晩年に書いている。
作曲することもあった、芸術好きの、ニーチェの本は、よく読むほうの信也だ。
特に、アンソロジーのような『座右のニーチェ』(斎藤孝・著)は読み返すほうだ。
その中の、次の言葉などを、信也は好きだ。
『一度も舞踏しなかった日は、失われた日と思うがよい。
そして、哄笑こうしょうを引き起こさなかったような日は真理は、
すべて贋にせものと呼ばれるがいい。』
『芸術は生を可能にする。生へ誘惑する偉大な女であり、
生への刺激剤である。』
『歌う鳥たちのもとへ行くがよい、
あなたがかれらから、歌うことを学びおぼえるために。』
『君たちは君たちの感覚でつかんだものを究極まで考え抜くべきだ。
君たちが世界と名づけたもの、
それはまず君たちによって創造されねばならぬ。』
『君たちはただ創造するためにのみ学ぶべきだ。』
『行動者だけが学ぶことができるのだ。』
『
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