152章 『幸福とはポエジー(詩)である』 と語る アランの言葉
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社長の森川誠。
ロックバンド・クラッシュ・ビートの、ドラマー・ヴォーカリスト。
「おれはね、世の中の人間が、あの青葉みたいに、人間失格というか、翔太が言うように、
人間以下の微生物以下になっていく原因には、
まず、純ちゃんも言うように、第1には、人の痛みがわからなくて、想像できない。
つまり『愛』が理解できないとがあると思うよ。
第2には、詩的なセンスがないだろうね。美しいものが理解できない人間なんだろうね。
そして第3には、この自然界で生きていることの感謝する心とかがないことがないとがあると思うよ。
この3つを持っていれば、普通は、あんな殺人鬼にならないだろうね。
そんな普通の人間として、持っているべき心というか想像力が、衰退したり欠如しているから、
人を傷つけても平気な無神経な人間が多いんでしょうね、いまの世の中・・・」
いい気分で冷酒に酔いながら、川口信也がそう言った。
川口信也は、1990年2月23日生まれ、29歳。
早瀬田大学・商学部卒業。純に誘われて、株式会社モリカワに入社。
下北沢にある本部の課長をしている。
クラッシュ・ビートの、ギターリスト・ヴォーカリスト。
信也は、さらに話をつづける。
「最近ついついと考え事していて、おれは思うんですけど、愛とか美とか自然界って、
哲学者のウィトゲンシュタインも言うように、語りつくせないものですよね。
ですから、ちょっと考え方の方向というか、視点を変えてみたんですよ。
じゃあ、幸福に生きるためにはどうしたらいいかって、考えてみたんですよ。
幸福について語った人では、アランの『幸福論』は、よかったです。
アランは、こんなことを『幸福論』の中で言ってますよ。
『およそ、幸福というものは、ポエジー(詩)であり、
ポエジーとは行動を意味するからである。人は棚ぼた式の幸福をあまり好まない。
自分で作り上げることを欲するのだ。子どもはわれわれの庭を見向きもせず、
砂の山や麦の切れっぱしなどを使って、自分で立派な庭を作る。
蒐集を自分でしなかった蒐集家というものが考えられようか』
子どもって、結局のところ、ポエジー(詩)的な存在なんでしょうし、愛とか美とか自然界も
ポエジー(詩)なんでしょうね。だから、そんなポエジー(詩)がわからない人間には、
幸福がわからないんだろうし、幸福には生きられないですよね・・・」
「そうだよなあ。幸福って、ポエジー(詩)と同じことなんだろうね。
幸福にもポエジー(詩)にも、愛も美も自然もあるわけだから。
さすが、しんちゃんだね。あっははは」
そう言って、冷酒にご満悦の純が笑う。
「しんちゃん、さすがに、鋭いね。あっははは。幸福って、ポエジー(詩)無しに
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