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超能力のある杉の樹
超能力のある杉の樹
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をしていることを意味し、このようなあり方を即自存在<?tre−en−soi>という。
 我々のことだ。
 それに対して、対自<pour−soi>である人間とは、「それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるもの」とした。人間は、何をやっている時でも常に自分を意識することができるので、物事のように自己同一的なあり方をしていない。AはAであるといわれるのは即自存在においてのみであって、対自においては、AはAであったとしか言われえない。
 対自は、仮に存在といわれたとしてもそれ自身は無<n?ant>である。これは人間があらかじめ本質を持っていないということを意味する。このことについてサルトルは「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と主張し、人間は自分の本質を自ら創りあげることが、義務づけられているとした。
 人間は自分の本質を、自ら創りあげることができるということは、例えば、自分がどのようにありたいのか、またどのようにあるべきかを思い描き、目標や未来像を描いて実現に向けて行動する「自由」を持っていることになる。
 ここでのサルトルのいう自由とは、自らが思い至って行った行動の全てにおいて、人類全体をも巻き込むものである。自分自身に、全責任が跳ね返ってくることを、覚悟しなければならないものである。このようなあり方における実存が自由であり、対自として「人間は自由という刑に処せられている」というのである。(人間は自由であるように呪われている。<condamn? a ?tre libre>)。
 いずれにせよ、サルトルの言う、(即自存在たる)我々は、(対自存在)の人間とは異なる。この世界の核心にアンガージュ(参加)することさえ許されない存在だ。彼が創作した作品の主人公ロカンタンが木の根っこで嘔吐(これが題名だが)する場面がある。が、サルトルは、我々の存在を、真の意味で認識していただろうか?
 意思ある私は、決して、彼の考える「即自存在」ではないからだ。

 話が、あちこちと飛んでいるのは、この表向きの作者……。え〜と名前が出てこないぞ……私も随分生きてきたから、認知症が進んでいるのかなぁー? 話にまとまりがなくなってきた原因は、私の思考が混沌の渦に呑み込まれているからだ、と思う。これを書いている作家を責めるのでなく、樹木たる私の超能力が衰ええていることにこそ、責めを受けるべきだ。

 気がつけば、いつの間にか、ご神体として真っ白なしめ縄をかけて、拝んでくれた人々が集った神社も朽ち果てている。国道のど真ん中にさらされている。私としては、尊厳をないがしろにされ、まるで心に大きな空洞ができたような辛さに襲われて、もし目があるなら大粒の涙を流して、悲しんでいただろうに……。
 片側二車線の国道は、私を避けて工事
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