第194話 翡翠の少女と負けられない理由
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母さんの頬から顎へ伝わる雫は、重力に引かれ床へと落ちる。
それはこの場で母さんがかいた初めての汗であり――焦燥の現れでもあった。
「……」
「――ッ!」
しかし、焦っているのは母さんだけではない。
意表を突いた渾身の飛び蹴り。タイミングも狙いも威力も、文句の付けようがない一撃だった。救芽井が平静を取り戻さなければ、到底成し得なかった攻撃だろう。
だが、母さんはそれを防いで見せた。咄嗟に出した十時受けで、完全に。
俺でさえ、防御が間に合うかどうかわからない。それほどの一瞬の中で、母さんは吹き飛ばされない姿勢を瞬時に整え、救芽井の一撃を凌ぐ体勢を完成させていたのだ。
その証拠に――あの蹴りを真っ向から受けていながら、母さんは一歩も引き下がってはいない。救芽井は、絶対的な瞬間を押さえていながら、決定打を与えられなかったのだ。
母さんは十時に組んだ腕の奥から、静かに救芽井を見つめている。息を殺し、獲物を狙う獣のように。
一方、決着を付けるつもりで放った一撃を凌がれた救芽井は――脂汗を滴らせ、唇を噛み締めていた。
これ以上ないチャンスを掴んでいながら、モノに出来なかった口惜しさ。ここから始まるであろう、苛烈な反撃への恐怖。
渦巻く負の感情が、いたいけな勇気を振り絞った彼女を、容赦なく飲み込まんとしている……。
救芽井なら、負けない。そう信じようとしていた俺でも、その状況の重さは読める。これはもう、劣勢という次元の話ではない。
眠れる獅子を起こしてしまった。そう形容して差し支えない、絶望なのだ。
俺は無意識のうちに拳を震わせ、矢村はより強く俺の腕を握り締める。
その中でただ一人、親父だけは――いつもと寸分違わぬ冷静さで、この戦況を見つめていた。
そして。
石のように固まっていた母さんの身体に、動きが現れ――
「ひ……!」
――敗北を悟った救芽井が、短い悲鳴を上げかけた時。
「よく、逃げずに言い切ったわね。……補欠合格、ってことにしてあげる」
「……えっ!?」
唐突に、この決闘は幕を下ろした。
何が起きたのか。本当に、救芽井は認められたのか。
俺達が目を見開いて見守る中で、母さんは先ほどまで迸らせていた殺気を一瞬のうちに消し去り――瞬く間に、元の「一煉寺久美」に戻っていた。
格好を見なければ、ついさっきまで身も凍るような威圧感を放っていたとは思えない、「ごく普通の主婦」の表情。その激し過ぎる変わり身の速さが、俺達の混乱を誘う。
「合格……!? 私、認めて貰えたのですか!? お義母様ッ!」
「勘違いしないでちょうだい。補欠、と言ったでしょう? あの子の『友達』から『親友』にランクアップした程度よ。調子に乗らないで」
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