第152話 三十六年前の死
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れている。
ボスニア人ともクロアチア人とも、セルビア人とも似つかない顔立ちであり、強い決意を秘めたように煌めく黒い瞳は、何物にも屈しない眼差しを空へ送っていた。
少女は、この女性を知っている。彼女は巷でも優秀な女医として、しばしば話題に挙がっている人物なのだ。
確かな医術と、謙虚な性格。そして民族や貧富を問わず、誰に対しても平等に接するその姿勢から、非民族主義の人々から絶大な人気を博しているのである。少女自身もかつての患者の一人として、彼女に救われたことがあった。
一方で、過激な民族主義者からは酷く嫌われ、時には命すら狙われた時もあったのだが――それでも彼女は、この国を離れようとはしなかった。
「民族主義だろうが非民族主義だろうが、助ける価値の有無など知ったことではない」。その気丈さゆえの言葉が、彼女の口癖だったのである。
いつ砲弾が飛んできて、自身が粉々に砕かれるかわからないこの状況の中でも、その気高さに衰えはなかった。
「よしっ! いいわよ、その調子! 大丈夫大丈夫、おばさんが付いてるからね!」
「ヨシエ……さん」
「諦めちゃダメよ、絶対に助かるからねっ!」
ヨシエと呼ばれた女医は、少女に肩を貸して片足で歩かせながら、懸命に励ましの言葉を投げかけている。自分もいつ死ぬかわからない身だと言うのに、その表情には微塵たりとも曇りがない。
決して不安にさせないため。決して心を折らないため。少女の精神を守るべく、女医は可能な限りの「最善」を尽くし続けていた。
それから数十分に渡る移動を経て、少女はついに砲撃範囲から離れた避難場所までたどり着く――が。
「じゃあ、私は他に取り残された人がいないか捜して来るから。お嬢ちゃんはここから動いちゃダメよ!」
「えっ……あ……!」
自らに迫る危険も省みず、再び死地へ向かおうとする彼女を、止めることは出来なかった。
兵士が救助に出払い、人員不足で民間人の誘導もままならず、避難場所では医師達が負傷者の治療に追われるばかり。その中で女医はただ一人、少女のような逃げ遅れた人間を捜し続けていたのである。
医師の一人として患者に手を尽くし、励ましながら。
女医は医者仲間の友人に少女を託すと、避難場所を後にして再び砲撃地帯へ飛び込んでいく。
「ヨシエッ! 待って! 迫撃砲はまだ全然止んでないのよッ!? 危険過ぎるわッ! 戻って、お願いッ!」
「ヨシエさん、ヨシエさんっ! ヨシエさぁあんっ!」
その友人と共に制止の声を投げ掛ける少女だったが――その叫びだけは、最期まで届くことはなかった。
そして、砲撃が止み。サラエボに束の間の平穏が戻る頃。
女医が着ていた白衣が、血達磨の肉塊に紅く染められた姿で――発見されたという
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