信玄公の厠
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う思います」
それに逆にです…今、私がこのお部屋を推す理由があります。そう云って狛江氏は眼鏡をくいと上げて、初めて俺の目を見た。
「物件の所有者は、今年で米寿を迎えます」
「もうジジイだから死ぬのを待てみたいな!?」
また叫んでしまった。
「ご安心を。私も『後継者』の存在を警戒しましたが、親戚縁者に悉く断られたと愚痴っておりまして」
「当たり前です。何が悲しくて知らない人の便臭を消す為に換気扇の下に日参して香を焚かねばならないのですか」
「あけすけな云い方をお許し頂けば」
狛江氏は資料をぱたり、と閉じた。この辺でクロージングに入ろうという感じだろうか。
「一説によれば、ヒトの細胞は125年で分裂の限界に達するそうです」
「泉重千代、ほんっとギリまで生きたのですね」
「……彼が分裂の限界まで生きたとしてもあと40年弱、大抵の場合はあと2〜3年でこの物件は只、トイレが広いだけの物件と化します」
「嘘ですよ。こういう思いつきベースの珍物件を平気で貸し出す毛玉心臓の持ち主は異様に長生きします」
「……その後、私どもは地価の高騰などの正当な理由なしには家賃を上げられません」
「……なるほど」
俺だって社会人1年生で手持ちが多いわけではない。貯金もしたいし、5、6年この変な物件の世話になって…という手がないでもないか…。
などと、まさかの前向き思考が俺の中に芽生え始めたその時、換気扇の方から『着信音1』みたいな完全にガラケーの懐かしい電子音が響いた。
「もぅしもぉぅしぃ……」
ヨボヨボした爺声が、換気扇を通して漏れ聞こえた。
「……なんと!引き受けていただけると!」
爺の声に、僅かにハリが戻った。
「おぉ…ありがたや、ありがたや…信玄の厠は私の代で終わりかと…!やはり遠くの親戚より近くの同好の士ですなぁ…じゃ、明日になったら早速引き継ぎをねぇ…ぐふふ…」
「―――やめときまっす♪」「ですよねぇ♪」
結局俺は、この後に紹介された物件に大人しく収まった。高いには高いなりに、安いには安いなりに相応の理由がある。掘り出し物なんてものは、不動産には存在しないのだろう。
爺は今も、誰も借りない巨大トイレの換気扇の真下で香を焚いているのだろうか。
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