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岩清水健一郎という存在
5部分:第五章
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第五章

 ここでいじめていた側の人間をもう一度見させてもらいます。廣瀬倫子にしてもミンチン先生にしても佐野チーフにしてもです。非常に惨めな人間です。
 何故惨めかといいますと自分の醜さや浅ましさに気付いていないからです。そして結果として周りの目、やがて自分にふりかかる因果にも気付いていないからです。そのうえで最後に自分に向けられる他人の冷たい目にもです。彼女達は結果として最悪の結末からは逃れられましたがそれでもそれは赦されたからであり運もありました。若し彼女達がいじめていた人間が歩やセーラや美樹の様に強く清らかな人間ではなかったとしたら。そしていじめていた側の人間の味方に非常に残虐な人間がいたならばです。彼女達はただでは済まなかったのは確実です。己の結末にどうしようもなくうちのめされ再起不能になっていたでしょう。そうでなくとも彼女達は自分の醜さ、鏡を見ればそれこそその鏡が割れてしまいそうなその醜悪さにも気付いていないからです。それと共に周りの目にも気付いていません。これこそが惨めなのです。
 そしてその惨めさを決定付けているのはその弱さです。自分の弱さを克服できずそのうえで醜い行動を繰り返しています。惨めと言わずして何と言えましょう。弱い証拠に人をいじめています。人間は自分より弱いと思った相手をいじめて自分が強い存在であると認識したい心理も持っています。これこそが弱さです。太宰治は人間は弱いものであると認識していました。しかしそれを認識することによりそれより先のものを見ることができたのではないでしょうか。
 弱さを知ったのは一連のドラマではいじめられていた側です。歩は人を避け自閉気味になり倫子を助けられなかった自分に気付きセーラも世間知らずな自分に気付きました。美樹もまた自分の至らないところに気付き成長していきました。人は弱いものです。しかしその弱さを知りそれを克服することにより本当の意味で強くなり優しくなれるものです。太宰治という異才は一貫して芥川龍之介というもう一人の異才を追っていた一面があります。その彼が『如是我聞』という作品で志賀直哉を批判した時です。彼は志賀の強さを批判しその時に弱くなれ、芥川の様に、と書いています。
 僕は志賀直哉も嫌いではありませんが太宰のこの部分の文章がとても心に残っています。彼はずっと芥川のことを思ってきていたのと共に弱さについても考えていたことが窺えるからです。弱いことは悪くない、その弱さを知ること、自覚できることによりそこから貴重な、素晴しいものが得られるのだから。それを考えると弱いことは恥ではありません。そのこと自体は恥でも何でもありません。
 問題なのはその弱さから目を逸らし逃げて醜い行動を取り続けることです。倫子にしてもミンチン先生にしても佐野チーフにしてもです。意図しているしていない、倫子ははっ
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