3部分:第三章
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第三章
ここでセーラはミンチン先生を赦しています。それどころかそのまま学校に先生としていてもらっています。先生は自分に相応しい場所である教壇に専念するようになりました。彼女は本来生真面目でよき教育者であった筈ですがそれに戻れました。そうしてそれによってセーラの母に抱いていたコンプレックスも、そしてセーラに対する呪縛も断ち切ることができました。全てセーラの赦しからです。
そのまま卒業写真にも一緒に写っていました。あれだけのことをしてきた相手と一緒にです。そして最後にです。
『有り難うございました』
この言葉を言われています。
これは一見して美しい場面ですが果たしてそうでしょうか。僕はこれはセーラの復讐ではないかとも思います。
言葉として表現するならば『高貴なる復讐』でしょうか。セーラは本当の意味で誇りを持ち豊かなお嬢様です。それに対してミンチン先生はコンプレックスの塊で非常に浅ましい行動を繰り返してきました。ミンチン先生はセーラに赦されその自分を赦した相手と常に正対しなくてはならなくなりました。そうなると自分のそのコンプレックスや浅ましさ、陰湿さ、器の小ささをその度に心に刻まれます。己の醜さを振り返りそれを思い出すことは非常に辛いことです。過ちに責め苛まれるということはかなり重度の人格障害者でもない限り誰にでもあることです。先に挙げた『ライフ』でも倫子は歩の見舞いを追い返していたのは自分のその醜さと正対するのが怖かったからでしょう。人は自分のそうした部分と正対することこそがもっとも恐ろしいことなのですから。
だからです。ミンチン先生はセーラに常にそれを刻まれていっているのです。その辛さはどういったものでしょうか。『人間・失格』の新見の如き人と呼ぶにも値しないような最低最悪の下衆とは違いミンチン先生は人間です。人間だからこそ悪をしてしまったのです。人間は善でもあり悪でもあります。ミンチン先生は善でもあり悪でもある人です。平成の仮面ライダーでは重要なテーマの一つは『人間とは何か』でしょうがその中で例え姿形がどういったものであれ心が人間ならばそれは人間であるのです。そうした意味で多くのキャラクター、異形にも変身したり正体がそうである彼等は人間であるのです。
『俺も闘う。人間として・・・・・・ファイズとして!』
これは『仮面ライダーファイズ』第四十話での乾巧の言葉ですが彼はオルフェノクであります。しかし彼は人間として、と言いました。それは心が人間だからでしょう。平成ライダーでは多くのキャラが姿形から人とは何かを見ることが多いです。そしてそこから心を見て人とは何かを知ることが多いです。見てから知る、でしょうか。人は姿形が問題ではないのです。心が問題なのです。そうした意味でミンチン先生は確かに問題のある部分もありますがそれでも人間なの
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