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「無題」

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 ほのかに点いているランプの下で、万年筆を動かす音がする。
 それを書いているのはひとりの老婆だ。丸くなった背中が暗やんでいる。
 老婆は、何もかもを失っていた。感情のないガラスの瞳でただただ虚を見つめている。
 苦しかったことも、楽しかったことも、すべて経験してきたはずだった。
 しかし、そのどれも老婆は覚えていないのだった。
 涙など、すでに乾ききっていたのだった。

 
 橙色に部屋を染める夕日が目に沁みた。すでに引っ越しの片づけは終わろうとしていた。
 残るダンボールはあと二つだ。小さくため息をつくと、彼女はまた作業に取り掛かった。
 「さくらこ しゅみ」と母の筆跡で書き殴られた文字。そのダンボールをばりっ、と開ける。中にはその名の通り彼女の趣味のものが詰まっていた。
未開封のジグソーパズル、大好きな本たち、柴犬の写真集、料理のレシピ本・・・。
 ひと目見れば蘇る思い出たちはみんな微笑ましいものばかりだ。
 それらをひとつずつ丁寧に棚に収めていった。
 すると彼女は箱の底にあるものを見つけた。
 細長い小箱。
 入れた覚えがないものだった。少し重みを感じる。
 首を傾げながら彼女はその小箱を開けた。
 中に入っていたのは、一本の万年筆だ。
それと一緒に丸まった正方形の紙も出てきた。かしこまったような明朝体の字でこう書かれていた。
「この万年筆で願いを書けば記憶と引き換えにどんなことでも思い通り!
〜使い方〜1.自分が叶えたいことと消す記憶をこの万年筆で書きます。2.あなたの願いが現実に!
注意! 消してしまった記憶は二度と戻ることはありませんので記憶の消しすぎにご注意ください。
それではこれからの楽しい人生をご満喫下さい!」
 彼女はその紙を持ったまま固まっていたが、それも数秒の間のことで、彼女はすぐに理解した。
 こんなことをするのは母しかいない。なんせ母は彼女にあの絵本を買ってくれた張本人だ。初めての一人暮らしで緊張している彼女への応援のつもりなのだろう。記憶が消えるとは母なりに考えたいたずらなのか。
 お母さんもたまには面白いことをするんだな、と少し感心してその万年筆をペン立てにさした。
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