肆ノ巻
御霊
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「瑠螺蔚さん」
その声は、幻でも聞き間違いでも何でも無く、はっきりとあたしの耳を打った。
あたしは、あれだけ避けようとしていた状況が現実になってしまっているにも関わらず、拍子抜けするくらいひどく冷静で、まるでこういうことが起こるのを予め知っていたかのように落ち着き払った心で、冷静に状況を判断しようとしていた。
もしかしたらそれは、一番起こって欲しくないことが起こってしまったが故の、激しく混乱する自分を隠そうとして表面だけ装った冷静だったのかもしれないけれど。
かけられた声に背を向けたまま、あたしはほんの一瞬、迷った。今、何を選択するのが最善なのか。上手く誤魔化すのか、そもそも誤魔化すことができるのか、いっそのこと何も言わずに一目散に逃げ出すか、それともー…。しかしそんなことを思い悩む暇も与えてくれない人が、不意に背を包んだ。
…高彬。
高彬は、抱きつくと言うには易しいほど、まるで逃がすまいと言うようにあたしをその腕に閉じ込める。触れたら消えてしまう霞を、無理矢理この場につなぎ止めでもするかのように。
その腕が細かく震えているのを見つけてしまって、あたしはようやく全ての誤魔化しを諦めた。はー…と肩の力を抜く。
あたしは目の前に回された手にそっと触れた。ビクリと大きくその手が揺れて、それから探るように、そして…強く強く握られた。あたしが現実に存在していると、まるで手を離したら泡沫のように消えてしまうんじゃ無いかと、怯えるように…。
高彬の気持ちが全身から伝わってくるようだ。自惚れでも何でも無く、高彬は、本当に本当にあたしのことを心配してくれていたんだ…。
なんだか胸が詰まって、あたしも握られた高彬の手をそっと握り返す。高彬の顔が、後ろからあたしの顔の横に寄せられる気配がする。互いの髪が微かに触れあう。―え、高彬、泣いてる?
「―…泣き虫ね、あんたは、ほんと、いつでも」
あたしはゆっくりと振り返ると、高彬の頬の涙を拭ってやる。いつもそうしていたように。
あたしが体を反転させたから、高彬の手が一瞬だけ名残惜しげに引かれて思ったより抵抗もなくするりと離れた。そのまま、あたしの腰の後ろで組まれる。
「夢の中でも、あんたは泣いていたわ」
涙は、いくら拭ってやっても、あとからあとから雫となって溢れてきた。あたしの指先にタンと降りかかり、細かい光となって落ちてゆく。
高彬、そんなに…泣かないでよ。あたしのことなんかで。あんたは、本当に…。
「…泣き虫ね」
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