82話
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前、いいか。
最初のふれあいはそんな言葉だった。だだっ広い食堂は早朝と言うこともあってあまり人がいない。東洋の血筋のせいで酷く幼げな見た目だが、その黒髪の男は誰からも注目される男だった。
極東日本でも名家の末息子として生まれ、そしてその家名に恥じない豊かな才能を持つ稀有な男。そんな男にとって、その言葉は酷く平凡な言葉だった。
その男の顔もやはり平凡だった。栗色の髪の毛に深い蒼の目。片手にカレーのついたスプーンを持ち、もう片方の手に何やら分厚い文庫本を携えて、食事と読書を同時にこなしていたその平凡そうな男が顔を上げる。
黒髪の男は、その顔立ちに意外さを覚えた。背中を丸めて食い入るように本に目を落としている時のこの栗色の髪の男は、それこそ生涯の仇敵とでも果し合いをしているような顔で本を読んでいたのだ。それ以前にこの男の顔を見た時も、いつも気難しそうな顔をして何かに専心していた記憶があった。
が、黒髪の男の目に映っているのはきょとんとした目で黒髪の男を見上げるなんだか間抜けそうな面だった。ぽたりと銀のスプーンに乗ったカレーが再び皿へと落下し、べちゃりとどろどろしたルーを散らした。
えぇ、良いですよ。
栗色の髪の毛の男はそう言いながら、視線をいったん周囲にやった。明らかに空席の方が多い―――というか、ほぼ空席しかないのに、わざわざ目の前に座ろうとすれば疑念を以て然るべきではある。
黒髪の男が席に着くころには、すっかり興味をなくしたように栗色の髪の男は《対話=思索》に没頭していた。カレーを掬って口に運びかけては途中で皿の上に落して食い損ねるという動作を何度か繰り返す様をなんともなしに眺める。
なぁ、いいか。
栗色の髪の男がもう一度顔を上げる。えぇ、良いですよ、と人の良さそうな笑みを浮かべた男は、その分厚い本に恐らく本購入時についてきたのであろう薄汚れた紙の栞を挟むと、すっかりテーブルの上に置いた。赤と灰色の体裁の本はざっと500ページほどだろうか、著者名からしてそれはドイツ語の本のようだった。
本当の自分ってなんだ?
え?
かちゃん、と子気味良い音が耳朶を打つ。銀のやたらデカいスプーンを皿に置いた男は、その蒼い瞳をじっと黒髪の男へと向けた。
どれほど時間があったかはよく覚えていない。2秒ほどだった気もするし、数分だった気もする。もしかしたら数十年もそうしていたと思うことすらリアリティが伴うくらいに、その間の時間はよく覚えていない。
さぁ、どうだろうな。
早朝の静謐を破ったのは、そんな男の声だった。打ち解けた、というわけではない。ただ、その男は柵をさっさと撤去しただけだった。
本当の自分という言葉がまず何を指しているのかがよくわからないな。それは例えばどこかに本当の自分なるなにかが存在していて、それが
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