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黒魔術師松本沙耶香  人形篇
1部分:第一章
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見える風貌は紛れもなく彼であった。彼は彼女を黙って見詰めていた。
「ここね」
 間違いなかった。そこ以外に有り得ない。彼女は意を決した顔で彼の下にある黒い扉の前に立った。そしてそこに手をかけゆっくりと開いた。鈍い音が聞こえたように感じた。
 中に入るとそこは彼女が写真で見たままの姿であった。古めかしいつくりであり、キャンドルで照らされている店の中は何処か古ぼけていた。その中は思ったより狭い。カウンターの他に席はなく、そこにいた数人の客達は黙ってカクテルを少しずつ飲んでいた。カウンターの客席の後ろと、バーテン達の後ろにボトルが並んでいる。店に入っただけで酒と木の香が漂ってくるようであった。
 彼女は席を探した。端の席が空いていた。そこからは店の入口が見える。その席が空いているのを見てほっとしたものを感じていた。
「あの」
 そして店の者に声をかける。ベストに蝶ネクタイの如何にもといった格好のバーテンであった。
「端の席に。座って宜しいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
 バーテンはそれに応えて彼女にその席を勧めた。彼女はそれを受けて店の奥へと向かった。見れば店には今までここに来た作家達の写真が飾られている。それは何れも彼女が知っている作家ばかりであった。
 あの端整な顔の作家もいる。彼にしては珍しくネクタイにベストといった格好で椅子の上に胡坐をかいて座っている。終戦直後の写真らしい。この時彼は流行作家になっており、その混乱の中である文豪と激しく対立していた頃であった。その最中でここで飲んでいたのだ。
 彼の左には彼と同じくその文豪達と戦った作家達が並んでいた。皆ここで飲んでいたのだ。そして同時に戦っていたのであろう。彼等は無頼に生き、そして無頼の中に死んだ。戦争の後の混乱と頽廃の中で彼等は生きていた。その輝きは一瞬のことであった。人々の記憶からも忘れ去られようとしている。だが彼等がかってここにいたという事実は今もここに生きているのであった。
 彼女はその写真を見ながら店の奥へと向かう。そしてまずはそこに座った。
「メニューは」
 座ってから尋ねた。だがその返事は意外なものであった。
「うちにはメニューはありませんよ」
「えっ」
 それを聞いて少し驚いた。その整った人形を思わせる顔が微かに動いた。
「そのかわり料金は高くはありませんので」
「いえ、それでも」
 メニューがないということは彼女にとってそれだけで驚きだったのである。
「まあそれが昔からのうちのスタンスですので。驚かれましたか?」
「はい」
 まだ戸惑いが残っていた。こくりと頷く。
「最初にうちに来られた御客様はそういう方が多いんですよ。まあすぐに慣れますよ」
「はあ」
「そして何をお求めですか?」
「ワインを」
 彼女は言った。
「ロゼで。ありま
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