3部分:第三章
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すか」
「そうだ。ところでだ」
ここで彼はふとおこわに言うのであった。家の中に入りながら。灯りは目が慣れてきていたので全く必要がなかった。おこわも灯りは持って来ていない。節約しているのだろう。
「今度墓参りに行くか」
「お墓参りにですか」
「そうだ。父上が亡くなられて十年、母上が亡くなられて八年になる」
彼の両親のことである。
「少し行ってみたくなったのでな」
「ですがお墓参りなら毎年しているではありませんか」
おこわは怪訝な顔になって夫に返した。
「それでまた急にどうして」
「まあその気になったのだ」
ここでも真相を隠す正芳だった。この時自分だけがあの白無垢の女の顔を見ていたことに心から感謝さえしていた。何に感謝しているのかは自分でもよくわからないが。
「だからだ。いいな」
「あなたがそう仰るのならいいですけれど」
おこわもそれに特に反対はしなかった。静かに頷くだけであった。
「それでは今度にでも」
「うむ。そうするか」
(しかしだ)
おこわと共に家にあがりながら思うのであった。
(あれには驚いた。いや、怖かった)
あの屋台でのことを一人思い出して考えていた。
(母上の顔があったとはな。もう母上がおられなくなって随分と経つというのに)
彼のその母のことを思うのであった。極めて厳しく彼にとっては何時までも怖い人物であった。今でも怒られることを夢に見る程である。
(まだ怖いというのか。わしもまだまだ母上から離れられぬな)
こんなことを考えながら家の中に入っていく。江戸きっての武芸者と言っていい彼にしても怖いものはあるというのであった。
この夜なき蕎麦の屋台は本所七不思議の一つとされている。実際に灯りを消したなら怪異があるだの消した者に災厄が降りかかるだの言われている。しかしその怪異や災厄が何なのかは誰も知らない。しかしこの彼はこうした目に遭った。これを怪異、災厄の類と言うのならそうなるだろう。今もこの屋台は東京にあるのかどうかはわからない。しかし若し中に入ったならば用心すべきであろう。冬の寒い夜には温かい蕎麦やうどんは何よりの馳走であるからだ。馳走に誘われてそれで怖い思いをするというのも馬鹿らしい話であるからだ。
夜なき蕎麦 完
2009・9・12
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