7話 普通と異常もまた紙一重
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のだろう。同じように、肉体的な苦痛や精神的ストレス、ありとあらゆる人生の不幸についても、虚構の娯楽は役に立つ。実際に我が身で体感するにはリスクが大きすぎるイベントであれば、それらを味わう他者を観察することで、不安を克服し解消するわけだ。
──だから銀幕やブラウン管は、悲鳴と嘆きと苦悶の涙に満ちあふれている。それはいい。理解できる。かつては龍之介も人並み以上に''死''というものが恐かった。特殊メイクの惨殺死体、赤インクの血飛沫と迫真の演技による絶叫で再現された''陳腐な死''を眺めることで死を卑近で矮小なものとして精神的に征服できるのであれば、龍之介は喜んでホラー映画の愛好家になったことだろう。ところが雨生龍之介という人物は、どうやら''死''というものの真贋を見分ける感性もまた、人並み以上に鋭かったらしい。
彼にとって虚構の恐怖は、あまりにも軽薄すぎた。プロットも、映像も、何から何まで子供だましの安易のフェイク。そこに''死の本質''なんてものは微塵も感じ取れなかった。
フィクションの残虐描写が青少年に悪影響を及ぼす、などという言論をよく見かけるが、雨生龍之介に言わせればそんなものは笑止千万な戯言だ。スプラッターホラーの血と絶叫が、せめてもう少し真に迫ったものであったなら、彼は殺人鬼になどならずに済んだのかもしれないのだから。それはただ、ただひたすらに切実な好奇心の結果だった。龍之介はどうあっても''死''について知りたかった。
動脈出血の鮮やかな赤色、腹腔の内側にあるモノの手触りと温度。
それらを引きずり出されて死に至るまでに、犠牲者が感じる苦痛と、それが奏でる絶叫の音色。
何もかも本物に勝るものはなかった。殺人は罪だと人は言う。だが考えてみるがいい。
この地球上には五十億人以上もの人間が犇めいているそうではないか。
それがどれほど途方もない数字なのか、龍之介はよく知っている。
子供の頃に公園で砂利の数を数えたことがあるからだ。たしか一万個かそこいからで挫折したが、あのときの徒労感は忘れようがない。人の命はその五十万倍。しかもそれが毎日、これまた何万という単位で生まれたり死んだりしているという。龍之介の手になる殺人など、一体どれほどの重みがあるというのか。それに龍之介は、人ひとりを殺すとなればその人物の死を徹底的に堪能し尽くす。
ときには絶命させるまで半日以上も''死に至る過程''を愉しむこともある。
その刺激と経験、一人の死がもたらす情報量は、取るに足らないひとつの命を生かし続けておくよりも、よほど得るところが大きかった。それを考えれば、雨生龍之介による殺人はむしろ生産的な行為と言えるのではないのか。そういう信条で、龍之介は殺人に殺人を重ねながら各地を転々と渡り歩いた。法の裁きは恐くなかった。手錠をかけられ虜囚となる感覚は──実際
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