険悪な2日間
[1/3]
[8]前話 [1]次 最後 [2]次話
『あきらめないこと。どんな事態に直面してもあきらめないこと。 結局、私のしたことは、それだけのことだったのかもしれない』とある登山家の名言である。
登山にかけた思いを人生と掛け合わせた言葉は、知る人ぞ知る応援歌となっているだろう。
また、『山とは金では絶対に買うことのできない偉大な体験と、一人の筋金入りの素晴らしい人間を作るところだ。 未知なる山との厳しい試練の積み重ねの中で、人間は勇気、忍耐、不屈の精神力、強靭な肉体を鍛え上げていくのである。登山とは、 ただこれだけで僕には十分である』と唱えた人物もいる。
これは当時20代の登山家が言った名言であるが、文章を読むにつれやはり諦めないことが思想となっているだろう。
故に人生とは諦めないことであり、諦めることは即ち死を意味するのだろう。
「諦める」といえば、自分の願いごとが叶わずそれへの思いを断ちきる、という意味で使われるのが一般である。
しかし、「諦観」、「諦聴」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味であることはご存じだろうか?
これらは仏教用語として用いられるが、漢語の「諦」は梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味するものとされているのだ。
これらの事から諦めはそのまま思想を断ち切るものではなく、真理や道理を追い求める物であるのが真実なのだ。
ならば一般的に使われている「諦め」はどうなるのか?
答えるのならばそんなものは存在しない。それらの全ては『妥協』でしかないのだ。
例を挙げた登山家に習い、私も名言を立ち上げよう。
『真の諦めは道理として心に持つべきである』
「お兄さま!今日は連れていってほしい場所があるのです!」
開口一番に我が義妹である陽菜が言ってきた。
つい先日から学生の長期休暇である夏休みに入り、バイトの稼ぎ時期間でもある。
そんな多忙な俺に、陽菜は元気良くそれでいて期待と高ぶる衝動に駆られるように詰め寄ってくるのだ。
「兄は今これから先のシフトを考えなくてはいけない。
よって今時分陽菜の要望に答えることは出来ないのだ」
「私はお兄さまとの思い出が欲しいのです。
先程、学校の宿題も全て終らせ、洗濯物やその他雑用事項も済ませました。
だからこそお兄さまからご褒美と称した贈り物として付き合っていただきたいのです」
おい待て。自由研究とか読書感想文があっただろうが。
お前絶対嘘書いただろ。
「しかしだな。この稼ぎ時はこの夏休み期間でしか出来ない貴重な収入なんだ。
確かに生活には然程困ってはいない。寧ろ余裕過ぎると言っても過言ではない。
しか
[8]前話 [1]次 最後 [2]次話
※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりを挿む
[7]小説案内ページ
[0]目次に戻る
TOPに戻る
暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ
2024 肥前のポチ