意味と狂人の伝説――収相におけるナエーズ――
―6―
[5/7]
[8]前話 [1]次 [9]前 最後 最初 [2]次話
満していた。視野を塞ぐ煙はペシュミンを恐怖に陥れるには十分だった。
「ママぁ」
顔をくしゃくしゃにし、泣きながらあてどなく煙の中を歩いた。どの方向から母に連れられて来たのか思い出せず、何となくそうだと思う方へ歩いていく。泣いていれば、いつも通りにママが来て、泣きやむまでそばにいてくれると期待した。
「ママー! ママ、どこぉ」
手が見えた。煙を布のようにかき分けて、ロロノイが現れた。
「おい、チビ!」
目を大きく見開いたロロノイの後ろ。
剣が振り上げられた。ロロノイは気配に気付き、剣をかざすが遅かった。ロロノイの剣は敵兵の剣を弾く事なく虚しく空を切り、空中で動きを止めて、しばし後手から滑り落ちた。
ロロノイはペシュミンを振り返った。
何か言おうとした。代わりに口から血が溢れた。彼が言葉を残そうとする度、泡立つ血が顔を汚し、ついに横ざまに倒れた。
血が筋を描く剣を手に、グロズナの若い兵士が立っていた。兵士はロロノイが最期に見たものを、即ちペシュミンを見た。彼は硬直し、顔に恐れを滲ませて立ち竦んだ。彼はペシュミンが無力だから恐れた。ペシュミンが無害だから恐れた。立ち尽くしていれば、その存在が、一つの惨い運命が消えるのではないかと期待して、兵士は動かない。あるいは動かずにいれば、己が殺すべき相手が無力ではなくなる事を、かくも幼くはなくなる事をどこかで期待して。
殺戮が階段を上がって来た。それは煙の向こうから迫り、呆けている若い兵士を突き飛ばし、彼に怒号を浴びせてペシュミンの眼前に立った。
ペシュミンは自分を殺す兵士の顔を見なかった。誰であれ、どのような顔であれ、関係なかった。
運命も、受け容れるという事も知らぬ幼子に、なお運命の剣は振り下ろされた。
蜂が見えた。
それは、最期に惨いものを、あまりにも惨いものを見ずに済むよう現れた慈悲であった。ペシュミンは天井付近に滞空する一匹の蜂を凝視した。ゆえに、剣の鈍い光も、それが振り下ろされる軌跡も、刃が己の皮膚と脂肪と肉を袈裟掛けに切り裂いて、幼い体をその一撃で破壊する様子も見ずに済んだ。ただ突き飛ばされるような衝撃を感じ、その力の強さに驚いた。痛いとは思わなかった。熱かった。
蜂はまだ高い所からペシュミンを見守っていた。
「蜂さん」
命の暗闇の中で、ペシュミンは動かぬ手を伸ばす。出ない声で呼ぶ。蜂は暗闇の底へ沈むように消えて行った。
「蜂さん、待って。どこに行くの?」
ペシュミンは歩いて蜂を追った。
「蜂さん、蜂さん」
光射す。蜂を照らす。闇が消え、熱さも消えた。
野の花が咲き乱れる丘に、ペシュミンは立っていた。
弾ける夏の光と風が花々を香り立たせる。見下ろす川は故郷のカルプス川。川向こうに緑の麦が実り、のどかに昇る煙は、村の炊事の煙だ。
[8]前話 [1]次 [9]前 最後 最初 [2]次話
※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりを挿む
[7]小説案内ページ
[0]目次に戻る
TOPに戻る
暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ
2024 肥前のポチ