王の荒野の王国――木相におけるセルセト――
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籍なんてなくなったり意味を失ったりしたら、君は存在しなくなるのか?」
「私はここにいるわ」
宙を泳ぐ倉富芳樹の手を?まえて、自分の顔に触れさせる。
「ほら、今、触っているでしょう? これが私よ」
「これはただの、君の肉体だ。人間の細胞は絶え間なく入れ替わり続け、今触れている物体が君ならば、君は秒ごとに君じゃなくなっている。三か月もすれば全身すっかり新しくて、別人という事になってしまう」
倉富芳樹は綾香の手を振りほどき、腕を下した。
「さあ、君は誰だ?」
「私は……私は私よ」
「それはただのトートロジーだ。無益な思考停止に過ぎない」
「私は、私はここにいる! 私はあなたが好きだと思っている。肉体が変わってもそれは変わらない」
「それはただの君の心だ」
と言いながら、掌を開く。いつの間にか倉富芳樹は、黄色い錠剤を掌に納めていた。
「君に処方されている、精神科の薬だ。こんな小さな錠剤で、君の心も気分も簡単に変わってしまう」
「それでも――それでも――」
綾香は両手で髪をかき乱した。
「変わってしまっても、今そう思ってる事は確かよ。それにあなたが私を覚えていてくれる。今この瞬間の私を記憶してくれる。そうでしょ?」
「それは君にまつわる他者の記憶であって、君ではない。現に僕はもう目が見えないんだ。君の顔をいつまでも記憶し続けてはいられない。他人だっていつまでも生きていて、君の由来を証明してくれるわけじゃない」
眼前の男は更に問う。
君は誰だ?
綾香は無意識の内に長い髪を掴み、毟り始めていた。
「私は誰?」
不安の大波にのまれ、涙ぐみながら綾香は尋ねた。
「では、そういうあなたは誰だというの?」
綾香は倉富芳樹の唇を見つめ、待った。その口角が吊り上り、彼は声なく笑った後、ゆっくりと喋った。
「記憶を失った君を見るのは、とても悲しい」
悲しみからは程遠い、嘲るような口ぶりである。
目の前の男が誰だかわからなくなり、混乱に突き動かされて、綾香は相手の顔に触れた。すると、耳の後ろで皮膚が一部捲れあがっている事に気付いた。その皮膚をつまんで引っ張った。男の顔の皮はめりめり捲れ、一枚目を剥がしきると、床に捨ててしまった。顔の皮は一枚ではないように見えた。綾香は何枚も何枚も、何枚も何枚も、何枚も何枚も何枚も何枚も相手の顔の皮を剥ぎ、床に捨てていった。ベッドの周りに無数の薄い仮面が積み重なってゆく。
一枚剥ぐ度に相手の顔は輪郭を失くしていった。肌の色さえなくなって、中空に白い影と、二つの眼窩と、口角を大きく吊り上げて笑うおぞましい口だけが残されて、綾香はそれでも顔を剥ぐのをやめられない。不意に、相手の口が大きく裂けたと思うと、綾香に飛びかかり、首筋に噛みついた。反動でベッドの反対側に落ち、暗闇の中を、果てし
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