王の荒野の王国――木相におけるセルセト――
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が実家の寝室の戸口に立っていた。
スーツ姿で、フルーツの籠盛りを提げている。
綾香はと言えば、何日風呂に入っていないか思い出せず、最後に何を口に入れたかも覚えていない。髪は脂ぎってぼさぼさで、枕は抜け毛だらけ。黄ばんだパジャマは汗臭く、湿った布団は黴臭い。倉富芳樹は戸を閉めて、ベッドの横に両膝をついた。
「あれから、具合はどう?」
綾香は乾いた唇で囁くように答える。薬の副作用で動悸が激しく、呂律が回らない。
「別に……」
「別にって」
「今日は、土曜か日曜なの?」
「いいや」
笑って答える。
「平日だよ」
「倉富くん、仕事行かなくって大丈夫?」
「用事があるって言って、有給とったから」
「用事って、私のお見舞い?」
「うん」
倉富芳樹は布団の中に手を入れて、綾香の手を握りしめた。
「伝えたい事があって来たんだ」
「何?」
「あなたを幸せにしたい」
綾香は相手の二つの目を見た。光を湛えるそれは、いずれも地獄の星であるように思えた。綺麗だった。綾香はそれが堪らなく欲しくなった。
「駄目かな?」
綾香はぼんやりしながら答える。
「わかんない……」
「そうだよね。ごめん」
「本気なの?」
寂しげな笑みを消し、倉富芳樹は綾香の両目をしかと見返して、本気だよ、と答えた。
「じゃあ私、倉富くん、指輪もお式も要らないから……」
「何?」
「その両目を頂戴」
倉富芳樹は目を伏せて少し考え、やがて覚悟を決めて、いいよと微笑んだ。綾香は両手で倉富芳樹の頬を挟みこんだ。顔を引き寄せ、右目を唇で塞ぐと、勢いよく吸った。
倉富芳樹の目玉がつるりと口の中に入ってきた。熱さに似た刺激が口中に広がった。その刺激は苦く、知りようもない記憶と郷愁をもたらした。
同じように、左目を吸いこんだ。左の目玉は冷たさに似た乾いた刺激があった。その刺激は、認識できる全ての物が影にすぎない事を思い出させた。
果て無い闇の中の影。人間とはそのようなものだ。影が必死に守っている、あるようなないような朧気な輪郭。自我とはそういうものだ。
「結婚しよう」
倉富芳樹は、闇が口を開けるだけとなった眼窩を綾香に向けながら優しく囁いた。
「そして、二人で歌劇を見に行こう」
「倉富くん、もう、見れないじゃない」
「ああ……そうか」
綾香は倉富芳樹の頬から手を放した。倉富芳樹の手が宙をさまよう。
「君が見えない。君は誰だ?」
「私は佐々木綾香よ。何を言っているの?」
「佐々木綾香。それは君の名でしかない。結婚して名前が変わったら、君は君じゃなくなるのか?」
綾香はベッドの上で座り直した。
「名前が変わったって、戸籍が残るじゃない」
「戸籍? 戸籍はただのデータだ。君じゃない。例えば戦争とか、大きな混乱が起きて、戸
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