王の荒野の王国――木相におけるセルセト――
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激する全ての物が理解できず、肉体は恐慌に陥る。目を瞠った。口を開く。悲鳴を上げた。されど声が出ない。大きく開けた口で、肉体は何度も汚れた空気を吐き、吸いこみ、吐いた。それが悲鳴の代わりだった。
恐慌は唐突に去った。肉体は口を閉じる。そして、目に映るもの、耳に聞こえるもの、自分の身に起きた事の、全てを理解した。
交差点で大型トラックに轢かれかけたのだ。
いつだって雑居ビルの影と高速道路の影に染められている暗い交差点。今は夜に染められている。
先ほどの騒音は、トラックのクラクションに違いない。
悪臭は排気ガスだ。
光の洪水は、電光看板にオフィスビルの窓の明かりに信号機に自動販売機。
何故、全て当たり前のこのような事がわからなかったのだろう?
「佐々木さんじゃないですか」
胸の鼓動が早くなる。脇の下に汗が浮いた。誰かの手が肩から離れ、振り向こうとした肉体は貧血を起こし、その場に蹲る。車道を絶え間なく、自動車が通り過ぎてゆく。
こんなに騒々しい世界があるなど信じられない。
では、何なら信じられるのか?
何を信じていたのか?
わからない。
もう何も思い出せない。
「誰?」
肉体はか細い女の声を発した。
「誰って。ああ、酔ってる」
男が溜め息をついた。信号が変わって、人々が動き出した。肉体は目をこする。視界が定まらない。男が誰だかわからない。それでも肉体は動き、その男の名を口にした。
「倉富くん」
それが男の名である事は明らかに思われた。
「送りますよ、佐々木さん。立てますか? 大丈夫?」
肉体は呻いた。熱帯夜はかつてない息苦しさで体を苛んだ。男がタクシーを止める。車内に連れこまれ、運転手に住所を教えるよう男が言った。
肉体は記憶に依らず、掠れた声で住所をマンション名まで述べた。
タクシーが動き出した。目を閉ざす。瞼の闇に緋の色彩が滲み出る。ひどい吐き気がした。カーナビが喋っている。その音声が不意に、低く甘美な声で未知の名前を呼んだ気がした。
「儚き人の自我よ。確たる自己、確たる現実、そのようなものがあると思うなら、見つけ出してみるがよい」
肉体は意味を理解する間もなく、意識を失った。
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