小さな約束
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てきたのよ」
その時のやり取りを想像すると、つい僕はくすりと笑ってしまった。
どちらの言葉もそれなりに真実であり、たぶんお二人とも至極真面目な顔付きで言い合ったのだろう。
「ひどいわ、笑うことはないでしょう?」
僕の失笑に気づいたフロイラインはそう言い、軽く睨むような表情になったが、すぐにまた俯いてしまった。
「……でもよく考えてみたら、私、ボタンをつけたことがなかったの」
それらしき形跡があちこちに残っていた。
マリーンドルフ伯爵家の令嬢として育ったフロイラインならば不思議ではない。
貴族の令嬢の趣味や嗜みとして、刺繍などをする方もおられるが、フロイラインは活発な性格で、室内に閉じこもっているのが苦手だと聞いている。外で身体を動かす方が好きだったそうで、だとすれば、針と糸など扱うのが初めてなのも納得できる。
「だったら……」
言いかけて僕は口を噤んだ。
生まれて此のかたやったことのないボタンつけを、命じられもせずにしようとする理由───たった一つしかないじゃないか。
「ローエングラム公ともあろうお方がボタンつけなんて……指でも刺したら、とつい心配になってしまったものだから」
その言葉にはっとして僕は失礼だと思いつつも、まじまじとフロイラインの指を見た。そこには果たして幾つか針傷らしいものがあって。
「針の傷でも雑菌が入ることがありますから。消毒はされましたか?」
フロイラインはやや頬を染め、肯定の意味で頷かれた。
「これはフロイラインがつけたことにして、閣下にお渡し下さい」
僕がしたことは内緒にしておきますから、と付け加えることも忘れずに。
「そうしてもかまわないかしら?」
フロイラインの瞳がうれしそうに輝いたことが、僕の確信を一層強くする。
「ええ、もちろん」
立ち上がるとフロイラインがドアまで見送りにきてくれた。
「どうもお邪魔しました」
「いえ、ありがとう、エミール。今度はお茶でも飲みに来て下さいね。今日は何もおもてなしもできなくてごめんなさい」
とんでもないです、と僕は手を振り部屋を後にした。廊下を歩きながら考える。
きっとフロイラインは幼年学校がどんなところか知らないのだろう。
よほど特別の配慮がされない限り、全員が寮に入ることになり、基本的に自分の身の回りのことは自分でする。
大貴族の子弟ならば側仕えがいたかも知れないが、閣下もまだミューゼル姓を名乗っておられた頃だ。衣類は支給されるが無限ではない。ボタンは取れたら自分でつけるのが当たり前で、閣下も幾度となくご自分でされたに違いない。
最近はさすがに自分で直されたりはしないだろうが、フロイラインのそれとは違い、閣下には経験はあるのだ。たぶん忘れてし
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