漂流民―水相におけるイグニスからネメス―
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々を飲みこんだ夜が控えている。
「陸地があった時代には、夜が人を食することはなかったって」老人を振り返ることなく問う。「私のおじいちゃんが言ってたわ。本当なの?」
答えを待つ間、ウラルタは祖父の教えを一つずつ思い返した。
人間が現実として認識できる領域は〈相〉と呼ばれ、世界は幾つもの相が集合することで成り立っている。ごく少数の高位の魔術師のみ相を跨ぐ事ができるが、一般人がそうした術の恩恵を得る事はない。
水相と呼ばれるこの現実は、かつて他の相を支配するほど強力であった。全ての陸地を失い、没落するまでは。
相を移動する為のエネルギーを得るには、何かを犠牲にしなければならなかった。
何かを。
その最もわかりやすい形が、この相においては、陸だったそうだ。
大人たちは、この漂流は罰だという。
他の相を支配した罰。
罰を受けてなお、滅びを受け入れず、漂流を選んだ罰。
即ち、水相に生を受け、生きる事も、死ぬ事も、罰に他ならないと。
本当にそうなのだろうか。
大人たちはみな、本気でその教えを受け入れて、生きているというのか。
「ねえ」
胸に焦燥の火花が散り、衝動的に振り返った。
暗い。
船はとうに駅に係留されていた。
老人は椅子に座ったままだ。垂れ下がった手と頭と、輪を描いて群がる蠅を見て、ウラルタは、老人がとうに死んでいた事を悟った。
声を失っている間に、港の係員が甲板に上がってきた。彼らは無言で老人を白い袋に詰め始めた。二人が死体袋を運び、一人が椅子を運んで去る一部始終を、ウラルタはただ見た。
※
四肢をだらりと下げて飛ぶ死者は良き死者。立った姿勢で飛ぶのは憎悪を抱えた死者。空を、何もないのにやたら折れ曲がりながら飛ぶ青白い光があれば、それは死者の憎悪である。
一枚の絨毯のように、鳥たちが羽ばたいてゆく。
死へ向かう一つの強固な意志を見せつけるかのように、霧の先の夜へと。
空には病んだ太陽が垂れ流す血のような夕闇が広がるのみとなった。
死者たちの翼を作る技術で栄えるこの町も、下町に広がる光景は他と変わらない。父親たちは戻る保証のない漁に出て、やがて墓碑に名を刻まれる。母親たちは工場で、通りに聞こえるほどの大声で罵倒される。路上で遊ぶ子供たちは皆、文字が読めない。
ウラルタは板張りの道を歩み、町を囲む防波壁にたどり着いた。壁に取りつけられた、常に日陰の、寒い風が吹きすさぶ、錆びてぎしぎし軋む陰鬱な階段を上って、その壁の天辺に立った。
それからウラルタは、単眼鏡を覗いてどこかに大きな建物がないか探したが、赤く色づいた乳白色の闇の中には、何も見出せなかった。
何人かの男達が、胸壁に凭れて海を見ていた。誰もが老いて見える。彼らが海と霧に何を探しているのかは知る由も
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