コヨミフェイル
001
[1/4]
前書き [1]次 最後 [2]次話
間違えるということは何を意味するのだろうか。
そう問われれば、僕は返答に窮することだろう。
辞書みたく誤りを犯すことと答えられたらどれほど楽だろうか。
しかし、誤りとはなんだ、犯すことはどういう意味かと僕は考えてしまう。
捻くれていると思われるかもしれない。
実際そうなのだろう。
誤りという言葉の意味がわからず、調べてみたのだが、間違い、失敗と書かれているではないか。
すると、間違いは間違いをすることという堂々巡りが展開されることになるのだが、こういうことは辞書では珍しくない。意味なんて当然過ぎて調べることもない単語ほど調べてみると、堂々巡りをしていたりする。当然であるからこそ、説明する段になると、それを説明できない。それを説明するにはその言葉を用いるしか手だてがなくなる。しかし、人は説明ができなくとも使うことができるという理由で、説明できるように努力することから意識を無意識に追いやる。安易な方に流れる。
これは人間の性と言ってもいい。
僕にも勿論ある。げんに僕は間違いの意味がわからないにも拘わらず、今まで放置していのだから。
辞書というのは自分ではどうにもできないそんな無意識に牙を向いて、爪を立てて書かれた書物なのではないだろうか。
当然のこととして、周知の事実として、意味が深く理解されずに放置された言葉を掘り下げ、適切な言葉を当て嵌めて定義していく。そこには並々ならぬ努力があるように思う。参考となる夥しい数の由緒正しい辞書がある現代ならいざ知らず、一番最初の辞書にどれほどの年月が費やされたのか不見識な僕には見当もつかない。そんな気が遠くなるような努力の上に辞書は成り立っているが、やはりそれでも意味の堂々巡りは存在する。
こんな紛い物、紛い物語もいいところの読み物と言っていいのか甚だ疑問であるような読み物語を書いているような僕が口を出していいような代物ではないのだけれど、僕も含めて皆にも意味の堂々巡りに行き遭うという経験があると思う。ない人もいると思うが、ある人にはあるだろう。
ある人にはあるのは当たり前のことだが。
それはさておき、そんなとき、意味の堂々巡りに遭遇したとき何をするべきか。参考にできるものがないときどうすればいいのかと言えば、自分で考えのも一つの手ではないかと思う。辞書が一から考えたように、自分も一から考えるのもいいだろう。勿論辞書の製作者ができなかったことが、自分が果たせるとは思っていない、思い上がっていない。ただしてみるのも一興ではないかと思うだけだ。
だから、愚考してみる、愚かにも考えてみる。
先ず一つ目に間違いは不利益なことをするということだろうか。
否だろう。間違えた結果不利益が生じて、不利益なことをしたということになるのであって、それ自体ではないように思える。
前書き [1]次 最後 [2]次話
※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりを挿む
[7]小説案内ページ
[0]目次に戻る
TOPに戻る
暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ
2024 肥前のポチ