第6話 回転木馬ノ永イ夢想(後編)
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涙を流す。「ごめんねぇ……お母さん。堪忍してねぇ……」
ねえ警備員さん。私にも世界で一番すばらしい日があったの。すべてが輝いていた日があったの。母が死者でなかった頃、あの白い回転木馬の遊園地が、戦争で燃え尽きていなかった頃、木馬の上でトンビが飛んでるのを見た。母がそれを、トンビというのだと教えてくれたの。それは母が精神が病んでからも教えてくれた、数少ない本当のことの一つだった。それから、図鑑を買ってくれたわ。私はトンビの顔を見た。優しい顔をしてた。
ねえ警備員さん。死者が階段に足をかけたよ。ねえ、私はもう逃げてちゃ駄目だよねえ、警備員さん。
夏布団の中で、仰向けに横たわったまま、あさがおは襖を見る。風を通すために開け放たれた襖を。その先に立つ死者を。入ってくる。両腕を伸ばして、あさがおを探して。
「お母さん」
意外なほどきれいに、喉から声が出た。
「私はここにいるよ」
死者が、青く血管の浮き出た足を止める。
「私はここだよ」
首が、錆びついているかのようにぎこちなく動き、灰色の長い髪の間から、雨の明かりを集める眼が現れた。まっすぐに、あさがおの目を見た。
「見える?」
甘く脂っこい死臭を放ちながら、死者の足が枕もとを右に通り過ぎる。首をよじり、あさがおの目から視線をはなさぬまま。
窓際に行き当たり、方向を変えて戻り、また枕もとに立ち、今度は左の壁際まで歩き、また、戻ってくる。
死者は目を逸らさず、枕もとの往復を繰り返した。あさがおは世界が沈むのを感じた。畳が、布団を載せたまま傾斜していく。
「ごめんなさい……」
ずるり、ずるりと布団が滑り、あさがおは落ちてゆく。
「……ごめんなさい……」
滑っていった先に、本来あるはずの家の壁はなくて、ああ、母が、目を逸らさず、畳のへりを右に行き、左に行き、その姿が遠ざかる。小さくなる。
あさがおは果てしなく高い家の壁際を、いつまでも落ち続けた。
上から下へ、全ての階に自分が見えた。
一人での暮らしを始めた自分がいた。
母の葬儀を行わない自分がいた。
母の面会に行かない自分がいた。
母に手紙を書かない自分がいた。
キジトラの猫を拾ってきた自分がいた。
大学進学を断念した自分がいた。
初めて男の子とつきあった自分がいた。
若くなる。若くなる。
あさがおは手で目を覆った。
しかし転落の無為に耐えかねて、泣きながら手を外した。
窓の中に茶色い大きな鳥がいた。
回転木馬にまたがる自分がいた。
その柵の外で、木馬の回転にあわせて一緒に回ってくれる母がいた。
「お母さん」
身を切る風の冷たさの中で、あさがおは窓に手を伸ばす。
「お母さん……」
心を病んでいたから幸せではなかったなどと、そんなことが誰に言えるの。
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